「南海部に天空路を拓く」のは壮大な夢(あるいはGOAL)ですが、言葉だけではなく、地道に足元から一歩ずつアクションを起こそう!そう思い立ったメンバーでつくったのが「SOGs75調査隊」です。「SOGs75」は佐伯(S)を想う(O)爺さんたち(Gs)75歳まで頑張るぞ(75)の意味。山歩き、海歩き、歴史散策などなど、とにかく一歩を踏み出してみようという、メンバーたちです。難しいルールはありません。ぜひ、皆さんの参加をお待ちしています。

<埋火> 2024.06.23

 日曜日の夕刻、佐伯出身の仲間4人と渋谷で飲んだ。何年振りかの渋谷であったが様変わりしていた。かつては駅周辺は雑然としていて心地よさがあったが今は何とも表現し難い硬質な異空間に変化していた。特に地下空間は迷宮だ。それに選別された若者だけが集う街のようで居心地が悪い。無理もない高齢者が皆無なのだ。日曜日の夜のせいかもしれない。その分、エネルギーが溢れていた。若さとはそこにあるだけでエネルギーを発散する。

 東京は何処もこのような風景に変じつつある。一極集中の凄まじさである。地方が衰退するのも無理からぬことである。全ての物的人的資源が絶えずここに吸収されているのだから。ただ、その地方資源が枯渇してしまったら都会も共倒れになることを分かっていない。

 それにしてもエネルギーが強すぎて皆知らず疲れているのではないのか。それに自然からあまりに隔絶した空間は心身にいいはずがない。我慢することはない。田舎はいいぞ。あるがままの自然に溢れている。そんなに頑張らないでいい。人生は心豊かに生きた方がいいに決まっている。だから田舎に来い。

 もっとも地方の人々も漫然と日々を過ごしていては更に衰退に拍車をかけることになる。孫や子には迷惑でしかない。何しろ人のエネルギーが乏し過ぎる。自らが重い腰をあげてエネルギーを発しないといけない。消える前に埋火を熾さないといけない。それはもう人間としての最期の努めのようなものだ。そこにある自然のエネルギーは計り知れない。燃え上がれば都会の比ではないのだ。埋火を熾さないといけない。

 地下鉄に乗ってふと思った。自分はもう優先席に座ってもいいのだろうか。交通弱者の部類に入るのだろうか。日本では高齢者の定義は曖昧だがWHOの定義では65歳以上らしい。ここが分かれ目なのだ。そこに座ってはおしまいのような気がしてならないのだ。

 自らの埋火を熾すことは喜びでしかない。さあ「SOGs75調査隊が行く」の再開だ。

<お為半蔵と国木田独歩 SOGs75 #10> 2024.03.13

龍王山(316m)と煙草山(260m)に登った。龍王山はその名の如く、雨をもたらす「八大龍王」を山頂に祀り雨乞を行った事に由来する。「屋形島」の龍王山も同様である。山名にしてはいないが龍王様を山頂に祀っている山は多い。それだけ人々は旱魃を恐れていたのである。

堅田地方には「お為半蔵」の悲恋物語がある。その心中口説によると、両人は龍王様の初ご縁日に一の鳥居で出会っている。当時は「龍王神社(柏江の速川神社に合祀)」は龍王山上に祭祀されていた。お為が山から降りてきて半蔵がこれから登る時に出会ったのである。お為のような娘であったかもしれないかつての乙女の集団に頂上で出会った。失礼ながら半蔵のように心動かされる事もなく、ただ記念写真の撮影を頼まれたに過ぎない。ただ、この山中に「鶯の初音」を聴くことが出来たのは幸いであった。

よく整備された登山道で山頂からの光景も申し分ない。ただ往復に一時間程で何か物足りない。ついでに国木田独歩が「欺かざるの記」に表現した近くの「煙草山」に登ろうと思った。龍王山より随分低くさして時間もとるまい。

「本日午前、収二と共に郊外に出て金比羅山に登る。この山は佐伯町の南にありて兀立(こつりつ)する山なり。眺望佳なり」。山の形が煙草の葉に似ているのではなく、山影が鮮やかに水に映じて煙草の葉に見えるのである、とも書いている。煙草山の由来である。

登山口は堅田側(上城)の「新熊野神社(旧寺田権現、1472年大神惟光の子女が勧請)」脇にある。何故ここなのかとの思いはあったが登山者情報ではそうなっている。いきなり鎖場から始まる。そこから急登でしかも道がさっぱり分からない。最初の尾根に出るまでに体力の多くを消耗してしまった。未だ一割も登っていない。その後も次々に急登の尾根が続く。

中腹の岩塊の上に石祠があった。新熊野神社の奥の院なのだろうか。頂上尾根に出てやっと快適な歩きになった。往復二時間と龍王山の倍を要した。登山道は地元民あってこそとの思いを強くした。

残念ながら山頂では独歩が「眺望佳なり」と書いた光景は木々に邪魔されて今は見る事が出来ない。背伸びをすると遠く小さく彦岳だけは見えた。振り返るとわずかに開けた樹間から先ほど登ってきた龍王山とその向こうに石草峯はしっかり見えた。

へたり込んで握り飯を頬張っているとふと独歩はこの登山道を登ってはいないとの確信めいたものが湧いてきた。独歩の視点は山の北側にあたる"佐伯町"にある。そこからの光景を愛でている。そちら側から登るのが自然であろう。わざわざ南側に回ってこのきつい尾根を登る状況を想像し難い。

あらためて諸資料に当たると「久部山(煙草山)」の一部、「東禅寺(上久部、1822年開基)」背後の山を「高住山」といい、その山腹に「金比羅社」がある、と書かれている。頂上には「金比羅神社」の奥の院があるらしいがそんなものはなかった。東禅寺は背後の山、高住山を拓いて四国八十八カ所の霊場を設けた、ともある。登山道は東禅寺の裏手にあるのではないか。頂上も違う山なのではないかと疑問が残った。ただ、山頂には“煙草山(高住山)”の標識が立木にくくりつけてあった。”久部山と高住山は別の山”で煙草山は久部山の俗称で独歩のいう金比羅山も何だか怪しい。金比羅社のある高住山のことではないか。だとすると独歩は煙草山には登っていない。本来の登山道から登ってみる以外に検証のしようがない。

低い山の割には体力に加え知力を消耗させる山でもあった。

<生簀に棲む男 SOGs75 #9 2024.03.03

「青嵐、秋月、落雁、夕照、晩鐘、夜雨、帰帆、暮雪」は中国湖南省の山水画の画題である。「瀟湘八景」という。かつて御手洗家が「秋月橘門」以下佐伯藩の文人を蒲江に招いた時、一行は”蒲江浦八景”を漢詩に詠んだ。「青嵐」の風景として選ばれたのが「背平山(392m)」、”烽台晴嵐”である。

佐伯と瀟湘八景 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜 (hatenablog.com)

「登ってみるか」、元猿海岸で昼食を摂っていて知人が指差して言う。車で登れる山はどちらかと言えば敬遠して来たがその山容だけは気にはなっていた。何処から見ても常に蒲江の海岸の中心に突出した巨大な塊だ。

光の加減で海の色は変化する。車を降りて、途中、山から見下ろす元猿湾はターコイズブルーといいたいところだがこの時間は「露草色」に近い。遠く四国が見えるほど空気のキレはいい。嗚呼、それにしても何て美しい。

頂上に至っては絶句、やがて感嘆の言葉を抑えきれない。山頂は南に開かれていて逆光になる。いい塩梅に「屋形島」を前景に光る海と墨色の日豊海岸はまさに幽遠、他にうまい言葉を探せない。西に目を転じると雲間からまるで甘雨のように柔らかく差し込む光の中に遠く佐伯五山が霞んでいた。

こんな絶景はそうはお目にかかれない。去り難し。誰ぞここにヴィラでも建ててくれぬものか。嗚呼、二十四時間、いや、一週間とて感動の日々を過ごせるに違いない。かの文人達もここまで登って来てはいない。八景の全てがここに極まっている事を知るよしもなかったろう。

「寄って行くか」、と山を降りて「西野浦」に連れて行かれた。海に突き出た生簀の上の”隠れ家”で御仁は自ら造った上等の肴で一人酒を飲んでいた。「美人ぶり」を世に出した御当人だと知った。海鳥が側で囁く偶に波にふわりと揺れる隠れ家で、酒の代わりに茶を啜りながら、美味い肴付きの実に豊かな時間が過ぎていく。出るは出るはこの地の尽きぬ”海の物語”が。背平山と同様に尚去り難し。老母の夕食の時間が刻々と迫り、余す肴を持たされて隠れ家を後にした。

生簀の向こうに”夕照”が映えていた。

“美しい”という味がある「美人鰤」公式ブランドサイト (bijinburi.jp)

<畑野浦を見て死ね SOGs75 #8 2024.03.03

畑野浦恐るべし。

畑野浦峠からの展望はいつ見ても素晴らしい。その中心に「入津湾」がある。かつて佐伯藩四教堂教授「明石秋室」はその絶景に驚嘆し漢詩「入津坂」を詠んだ。

そこから降って畑野浦の港に面する小さな山(131m)を訪れた。知人が営む「自伐型林業」の山であるが、予想を遥かに超えた光景が出迎えてくれた。

その山裾の一角から"四国八十八ケ所畑野浦霊場(お大師様道)”の小道が斜面を縫って北側の麓の「福泉寺」まで続いている。八十八体の石仏がその小道沿いに点々と祀られていて、この地区のかつての繁栄が窺い知れる。路網(作業道)は今更語るまでも無い。信仰の小道と路網が一体となって絶品の逍遥路を形成していた。

しかも驚くべきは森の多様性である。海辺の小さな山にしては山桜、樟、躑躅、あれやこれや枝振りの見事な巨樹達が天を衝いて立っている。巨大な「杉の自然木」さえ残っている。その木立の中に佇む墓所の何と美しいことか。

山の南側には神武東征に縁起する「伊勢本神社」がある。湾内の「江武戸神社」や「早吸日女神社」も同様の縁起を持つ。その他にも入津湾一帯はその伝承譚に事欠かない。その裏山辺りの小高い尾根に登ると入津湾の絶景が現れた。峠からの遠景と眼前の近景と今日は入津湾が二度美味い。

こちら側の山裾には明らかにこの山に埋もれていた「段々畑」が、樹木が払われてすっきりした為か、海風に深呼吸でもしているようだった。この山を単なる山林と呼ぶには適当ではなかろう。「文化的景観森林」とでも言おうか、小さな山の偉大な機能に感服である。

因みにこの地は土佐の長宗我部一族(戸高氏)や肥後の菊池・阿蘇氏が住み着いた歴史性、物語性の濃い地でもあり興趣が尽きない。

山を降り朝方通って来た峠方面を振り返ると東西に高く稜線が走っている。こんな高所に水系があるだろうかと思わせる左手中腹に滝が遠望出来る。右手稜線に目を転じていてふと気づいた。神武一行の占い師がそこで天候を占ったと伝わる「神武代(神武ケ原)」はどの辺りだろう。山向こうの木立小学校歌にも歌われている(朝な夕なに仰ぎ見る、南の空の”神武代”)。さもありなんと思わせる台状の山が居座っていたが、ここでは木立地区からは見えない。疑問を残したまま逍遥を終えた。

それにしても恐るべし畑野浦。恐るべし海の民。美林を後に穏やかな「元猿湾」を眺めながら「うさぎ亭」で蒲江を食させて頂いた。

この話は未だ終わらない。驚くべき体験が待っていた。

<風と光と孤独と歩く SOGs75 #7> 2024.03.02

「大原越」、京都大原を想起させて何だか情緒を感じさせる。勿論、三千院も寂光院もないし、”大原女”も多分いない。かつて佐伯領(上直見内水)から岡領(宇目大原)、延岡領(柚ケ内)と繋いだ尾根越えの旧道名である。

尾根は南北に長々と連なっていて過去も現在も日豊国境を成す。大原越そのものは途中でこの長い尾根から分岐して延岡領に降って行く。「西南戦争」の激戦地でもあり堡塁跡が尾根上に点在して残っている。ただ、どれも風化が進み今やそれらしき窪地が残るのみで兵どもの悲哀を偲ぶことさえ難しい。

その大原越を途中まで辿り更に南の椎葉山(460m)まで往復9km、5時間をかけてひたすら一人歩き続けた。春が間近に迫り大気がキレを失いつつある。佐伯地方の山々は大方が低山で夏場はとても歩けない。歩くなら今の季節しかない。

それにしても何と素晴らしい尾根なのだろう。その多彩さに飽きる事がない。往路、体力は限界に達しつつあったがその魅力に引き返す判断が鈍る。復路に残しておくべき体力が確実に奪われていく。無理ならそのまま下山するまでと腹を括った。

尾根は細くたおやか、かと思えば丸みを帯びてふくよかで、あるいは深く浅くアップダウンを繰り返し、左右にうねりも凝らしてあって、ところどころ枝尾根が方向を惑わして、両脇は概ねなで肩のようで、時に倒木した大樹が幾重に行く手を阻み、樹種や地質は一様でなく、時折り差し込んで来る光が多彩な風景画を次から次へと繰り出してくる。まるで美の回廊、魅惑の道であった。

だが展望は殆ど効かない。黙々と歩くのみ。この稜線の麓の狭隘な谷筋に国道と鉄道が並走しているが、耳をそば立てても人工音は一切聞こえて来ない。強弱の風の音だけの世界だが、それもこの日は機嫌が悪い。まるで脅すように森を揺らし続ける。孤独感が深まって独り言が増えていく。偶に遭遇する堡塁跡が何だか唯一の仲間に感じられて暫し立ち止まるばかり。

尾根を歩き続けるだけだから登山のような頂上を極めた時の達成感からはほど遠い。究極の目標が不明瞭なのだ。道程の総体が一つの充足感をもたらすようなもので一歩一歩の足取り毎にそれが増幅していく。登ると歩くはアドレナリンとドーパミンの違いのようなものかもしれない。達成感というよりは幸福感と言っていい。

 歩くだけで幸福感を得られるのだ。こんないいことはない。

(西南戦争関連ブログ)

海ゆかば(西南戦争異聞) Y3-09 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜 (hatenablog.com)

もう一つの西南戦争 Y2-12 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜 (hatenablog.com) 

<"ハルちゃん"が待っていた SOGs75 #6> 2024.02.16

 「佐間ケ岳」(328m)は本匠側から登って初めてその魅力が分かる。低山ながらも周囲の空間を圧してどっしりと腰を下ろした巨人のように見事な姿をしている。この山の秀麗な姿はその巨人の肩から袖に当たる尾根の形状の素晴らしによる。だからその尾根を歩かずしてこの山の魅力は分からない。眺める度にそう思って来た。

一方、麓の「笠掛」集落からその尾根を越えて隣村に出るかつての要路が「尾岩越」である。ここを歩きたかったものの機会を得なかった。最近、近傍の森林が伐採されて尾岩越の峠が現れた。矢も盾もたまらない。あの峠を越えたい。そしてそこを向こうに降りずにその長い尾根に取り付けば絶妙のルート選択にならぬかと。

笠掛集落は藩政時代に旧中野村の大庄屋が置かれたところで、「尾岩越」、「切畑越」、が交差する交通の要衝であった。田地は多くないが旧中野村で最も人口が多かったのはそのせいであったろうか。

集落の保食神社下にあり、「河野文書」が出た大庄屋の屋敷は取り壊されて今は無い。その神社脇からが尾岩越への登り道だったらしいが、佐伯氏の旧都「古市」にあった「善教寺山門」が移設されている「福円寺」横の山道を辿った事が失敗であった。初っ端から道が途絶えて山中を迷走である。因みにこの峠を越えて祖母は尾岩から嫁いで来た。

峠は防獣ネットで塞がれていて越えられなかったが見事に「堀切」されていた。「国木田独歩」が尾岩側からこの峠に達したとすれば、目にした光景に感嘆したのではなかろうか。堂々たる「米花山」が眼前に現れるのだから。そしてその手前に目的地、「銚子八景」に続く「三股越」の尾根が続いている。

ここから頂上を目指した。一部、背の高いシダが密集し「藪漕ぎ」に往生したが、そこを除けば頂上まで案の定、素晴らしい尾根が続いていた。途中、尺間山、椿山、そこから冠岳まで続く稜線の眺望が素晴らしい。頂上に向かって尾根の左手「弥生」側は杉林だが、右手本匠側はウバメカシの自然林で木漏れ日の林が美しい。

頂上に達すると壊れかけた三基の石祠が立っていた。一つを除いて破損が進み最早何を祀っているのか分からない。その一つも石祠の文字は掠れてよく読めないが、脇面に「願主橋迫長門」と刻んであった。弥生側の麓にある「八坂神社」(神主は橋迫氏)が祀ったものと分かる。調べると明治時代に八坂神社に合祀される前は、ここに「龍王神社」の祭神の「水波売大神」(女神)を祀っていたようだ。水神様である。「イザナミ」の尿から生まれた神だ。この地方の名だたる山上には水神を祀った石祠が多い。父祖達が水不足に苦労した事が窺われる。石祠の前に明らかに折れて無くなったと分かる小振りの鳥居跡がある。ここは神社だったのだ。弥生「切畑」側を向いている。

下りは登りと反対側の尾根を伝って三股(大良)側に降りる予定だったが、進路が急峻過ぎて本来の尾根を見出せず、諦めて手前尾根から下山した。

この判断が「一期一会」、ハルちゃん(80歳)との邂逅をもたらしたのである。自称ハルちゃんは畑で草むしりをしていた。挨拶すると色々聞いてくる。田舎では大概そうなる。こっちも色々里の話を聞く。母と旧知と分かった。その息子だと知るともう放さない。辞去しようとすると家まで連れて行く。米、炊き込みご飯、漬物を持って行けと勝手口から持ち出して来る。固辞しても聞く耳がない。見送りに着いて来て、それでも足りないと思ったか、先ほどの畑に入ってブロッコリーを摘んで来る。「これも持って帰れ」。

「歩く旅(道)」とは、結局、そういう事なのである。思わぬ発見がある。予期せぬ一期一会がある。これがリピーターを作る。

ハルちゃんの家を後にして歩いていると、道沿いの小川に覆い被さるように白梅が満開であった。

<洞穴勝負、蝙蝠嗤う SOGs75 #5> 2024.02.11

生傷に湯船の熱い湯が沁みる。いずれの「石灰岩峰」もいきなり40度前後はあろうかと思われる急傾斜の登りが続いた。そこに時を超えて密かに眠っているまだ見ぬ「民俗史的洞穴」を目指した。       一方は大小の石灰石が斜面に緩く敷き詰められているようで踏み込むとズレ落ちる。一方は杉の枯葉が深く覆い踏み込むとスキー板に乗ったように滑り落ちる。生傷が幾度となく両足に刻まれた。

今日の結論を言うなら、この二峰の洞穴探索の登攀はかろうじて11敗。前回は2敗であるから、都合、13敗となった。ただ、この1勝はまたもや位置を特定出来ず経験者に電話を入れ助力を求めての1勝であるから事実上4連敗と惨敗である。

一登目は囲ケ岳洞穴(豊薩戦因尾砦跡)、二登目は聖岳洞穴(旧石器時代聖岳人)である。

今日は山を鳴らして終始風が冷たく吹き付けてくる。それが不安を掻き立てる。やがて壁面上に黒く二つの穴が開いているのが見えて来た。これかと思ったが、かつて薩摩勢八百人を退けた砦跡にはとても見えない。これではない。

岩峰の裾沿いに更に上へと探すが見つからない。いつの間にか前回の別ルートから登った囲ケ岳頂上に登り詰めてしまった。悄然として小休止。頼みとすべき経験者への事前ヒアリングでは最早その記憶も判然としなかった。指定文化財にしては現場にも一切手掛かりがない。この世にその場所を特定出来る生き証人となる良い機会であったが撤退やむなし。

薩摩勢百名程が砦からの投石等により落命したと伝わる斜面を下りつつ、足元を覆う石灰石群がまるでその白骨を思わせるようだった。この地に敗兵の供養碑の伝承が無いのは不可思議である。洞穴は沓として知れず依然として人々の微かな記憶にとどまり続けるのみ。

登口まで降りて来ると可憐な白い花を咲かせている一本のミツマタに、「お疲れさん」と鼻で笑われたような。

場所を移しての二登目に向かう為に出発点に戻ってくると、対岸の「宇土の嶽」にロッククライマーの一団が張り付いていた。「こいつらを仲間に入れておけばよかったのに」、皆の背中が言っているようだった。

 

今回こそはと皆自信を深めて二登目、「聖岳尾根」に取り付く。前回と同じ位置までは迷う事なく辿り着く。それにしてもきつい傾斜だ。一帯に洞穴を探すもこちらも沓として分からない。襲いくる焦燥感。目の前の白い岩塊の中にまたもや洞穴の位置を特定出来ないのだ。やむなし、電話で他力を求め遂に発見するに至った。滑落と隣り合わせの急斜面を挟んで岩塊には容易に近づけない上、穴の前の岩が死角になって見えなかったのだ。

狂喜して穴に数歩入ると古びたアルミ製のハシゴが数メートル下の穴底に下りていた。穴は奥に40~50mは続いているはずである。当たり前だが暗い。元々穴に入る予定はない。その装備もない。だが、ハシゴが「入ってこいよ」と誘ってくる。

皆に背中を押されてスマホのライトのみを頼みに下りていく。生暖かい。最奥部まで行ったろうか、足元がぬかるみ始めたので引き返そうとすると、後ろで突如、誰かが悲鳴もどきの声を発した。腰ほどの高さの窪んだ壁面の下に小振りの蝙蝠がびっしりと張り付いていたのだ。ライトをかざしてもピクリとも反応せず整然とぶら下がっている。まるで黒いキクラゲのようだ。肝心の聖岳人の骨が埋まっていた洞穴地面は固く締まって騒動の一端さえ想像させてくれなかった。こんな懸崖の壁面の上にある深く細い洞穴に人が棲みついていた事を想像するのは中々難しい。

穴を出た。一行は洞穴入口前に陣取って「ジイジの握り飯」で午餐を始める。鳥の声が響き渡る岩陰に身を委ね「ジイジの紅茶」を啜りながら達成感と幸福感に暫し疲れを忘れた。

だが、もう洞穴は御免だ。熱い湯が生傷に沁みる。

<三悪人、聖の返り討ちに遭う SOGs75 #4> 2014.01.14

 本匠地区には東西に「海成層石灰岩」が細長く横たわっている。この地にある奇岩や洞穴は見事なまでにこの上に並んでいる。「聖岳洞穴(ひじりだき)」もその内の一つである。旧石器時代の石器類と人骨が洞穴内の同じ地層に発見され、かつては「聖岳人」として高校の歴史教科書にも掲載されるほどの学術的価値を与えられた。

残念ながら後年の鑑定技術の進歩により人骨は五百年前のものと判別され大発見は誤認とされたが、人骨は四歳位の子供、四十歳代の男性、四十歳代の女性二体の四体と判明している。四人が同時期に住んだ保証はないが、何だか想像力を掻き立てられるではないか。

石器類の不明瞭な管理も重なって当時の調査結果は捏造だったと週刊誌に叩かれ、調査した研究者は自殺を以ってこれに抗議している。今は聖岳人は全く忘れ去られ、その洞穴場所さえも一部の人を除いて分からなくなってしまった。そこに登る。

さて、この聖岳洞穴のある「宇津々」は魅力に溢れる谷である。「愛宕、秋葉、石鎚」の複数の神々を祀り、谷の最奥の「フルドモリ」には四十基を超える庚申塔がひしめき合って立つ、その豪勢。県下でも有数の石塔群である。その側の「地蔵庵」の「経王二字一石塔」も県下唯一、とこの谷の民俗文化の多彩さである。

だから「聖岳」の名称もこの谷には何だか相応しい。その尾根は急峻な岩塊から成り修験者が住み着いても決して不思議ではない。彦岳、尺間山、石鎚山と佐伯地方に東西に連なる山陵は修験の岩峰であるが、聖岳もその線上にある。麓には「秋葉様」が祀られ、対面する谷向こうの岩尾根には「石鎚神」を祀る。何とその麓には「愛宕神社」があり、社殿脇の岩壁上には「祖母岳大明神」の石祠、同じ場所には怨霊となって猛威を奮った「佐伯惟治」の墓碑がある。まるでこの辺りは「結界」ではないか。

だがこれら信仰の山々のような瑞祥は聖岳には顕現しなかったようである。頂上は丸味を帯びて何とも優しく修験には相応しくない。だが洞穴のあるその尾根は実に懸崖である。

さあ登ろう。だが早々にコースを誤認する失態に道なき山中を迷走する羽目に陥った。「ジイジの握り飯」で昼食を取った開けた尾根の脇の谷筋に横たわる岩塊こそが目的の場所だったにも関わらず、反対側の谷筋に方向を転じてしまった。そこに洞穴は見つからず、「ここにあらず」と迂闊な判断を下してしまった所為である。登山の準備は万端でも情報収集に手を抜いたツケが出た。疲労困憊、結局、地元の経験者に電話確認を入れてようやくルート誤認が判明、元の開けた尾根まで引き返した。聖岳人に嘲笑されたようなバツの悪さである。

それにしても地上から立ち昇ってくる急峻な岩尾根は圧巻でまるで白い竜骨を思わせる威容であった。洞穴探索は断念したものの圧倒的な自然の造形に感服、山岳信仰の一端に触れたような気がした。滑落の危険を感じつつ恐る恐る竜骨沿いに下山しこの結界から退散した。

後日談がある。何と洞穴はしっかりと写真と動画には映りこんでいたのである。迷走による疲労感が視野を曇らせてしまったとしか言いようがない。聖岳、恐るべし。

<冬の山古道に積もる回向 SOGs75 #3> 2023.12.22

副題:山古道と里古道

 以前、母が話してくれた。嫁に来る前には山向こうの実家から「三股越」の尾根を越えて隣村の直見駅まで歩いた。三股集落に嫁に来ると目の前の「久留須川」の木橋を渡って笠掛集落に入り「尾岩越」で別の隣村に出た。

三股越の尾根下には茅刈場(入会地)があってよく登った。茅は炭袋(別称「ザツ」)を作る材料になった。どの集落の山にも炭窯があり樫の木の炭がいい値で売れた。昔は集落総出で「やみちぎり(薮道切り?)」と言ってこの尾根道の整備をやった。

つまり三股越は尾根筋の各集落の「天空の生活道」だったのだ。いつか歩いてみたい思いが募った。明治の文豪「国木田独歩」の「銚子八景」への逍遥、今でいうトレッキング、これが決定打になった。「切畑越」を通って笠掛に降りて三股を通って行ったとある。尾岩越と切畑越は笠掛で交差する。繋ぐ道は三股越しかない。だとすると独歩は実家の前を通ったことになる。もう独歩と一緒に歩いてみなくては居ても立ってもいられない。

国木田独歩とわがふるさとの峠道 - 忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜 (hatenablog.com)

 

前日に初雪のあった氷点下の冬至の日、遂に三股越に挑む日が来た。銚子八景のある小川集落まで登り気味のなだらかに続く素晴らしい尾根道が待っていた。殆どの道程を杉林が視界を遮っていたが、一人想いに耽りながら静かな樹間を歩くには実にもってこいである。世間ではそういう自分を見つめる為のトレッキング流行っている。

突然、二頭の鹿が転げるように尾根を横切って逃げた。こんなところに人間が現れるとは思ってもいなかったのだろう。尾根が高くなるにつれ日影の植物には未だ雪が残り、「ぬた場」も氷を宿していた。頭上に鳥の甲高い声が羽音と共に空気を切り裂いて来て襲われる不気味を感じた。

やがて右手に「米花山」が見えてくる。佐伯藩の儒学者「中島子玉」の号「米華」の由来となり「豊後国志」にも名高い名峰である。振り返ると「南海部の北壁」に「冠岳」をはじめとする「本匠五山」や尺間山、彦岳が連なって見えた。

独歩が降りた小川の谷筋には降りず、そのまま尾根を進み「新洞越」を横切り尾根筋の最高峰(山の名は知らず)に至る。途中、遥か豊後水道の向こうに四国の一千メートル級の山並みがくっきりと見えた。独歩はこの絶景を観る前に降りた。頂上には「八大龍王守護」の石祠が草叢に覗いていた。

そういえば「天空の生活道」の尾根筋の各集落には荒神、水神、道祖神などを祀った石祠が多く残る。この山上の祠は雨乞いを込めているのだろう。独歩の背中を追いながら満足感に満たされる一方で更に森閑とした尾根を黙して縫っているとむしろ父祖達の生活道への想いが昂じてくる。独歩の姿は遠く消えていった。

下山後は久留須川沿いに旧道を通って帰ったが、あちらこちらの路傍でそういう石祠に出会った。これらを祀った古の里人の信仰心が滲みてくる。要するに父祖達に山古道と里古道を歩かされたのだ。民俗の原点がそこにある。それを見守っていく為に皆で歩くのがいい。「歩く旅」の原点も案外そこらへんにある。

本匠三股越/独歩逍遥2023-12-22 / 南海部に天空路を拓く会さんの椿山の活動データ | YAMAP / ヤマップ 

<因尾砦の三悪人 SOGs75 #2>2023.12.10

一人は早や4時には目覚めて今やプロ顔負けの四人分の弁当作りが楽しくてならない。山を小馬鹿にしたかのような従来のランニングシューズを今回は新品の登山靴に履き替えてどうだという風に参上した。一人は案の定寝ぼけ眼で遅参した。山用地下足袋さえあれば何も準備は要らないとこっちもリュックさえ持参無しのおおらかなものである。最後の一人はもう最高の天気に「南海部の北壁」に初めて出会える興奮に不摂生の体型と弱体化した足腰を顧みることがない。三悪人の無知を庇ってあまりあるのが良きアドバイザーのT氏の存在である。

豊薩戦時(1586年)、佐伯地方では「堅田口」以外に「因尾口」からも約八百名の島津勢が侵攻して来た。地侍達が遥か遠く「栂牟礼城」に参戦していた時に、これに手ひどい反撃(百人余の戦死)を加え撤退させたのが、残された地元百姓達が立て籠った「因尾砦(洞穴)」からの「待ち伏せ攻撃」であった。

その因尾砦跡が残る「囲ケ岳(260m)」の懸崖の突端にジイジ達はついに立った。眼下の谷底に吸い込まれるような足が萎えてくる絶壁である。その中腹に因尾砦跡の洞穴がある。「南海部の北壁」が既に眼前に迫っていた。番匠川は「海成層石灰岩」を刻んで深い渓谷を作り流れている。その両岸には幾多の奇勝が散在する。囲ケ岳もその一つである。

だがルートを誤ってしまった。流石に岩山登りの技術がないとここから砦跡に取り付くのは無理である。次回、直登ルートを探すこととし、そのまま囲ケ岳の尾根から遥か上方の「猿嶺(509m)」を目指すことした。途中、奇岩が続き急登が二か所ある。ジイジ達にとっては難関であるが尾根道は開けていて歩きやすいのが幸いであった。

猿嶺は「米花山(606m)」の稜線の一部を形成している。今はその稜線には林道が通っており楽をするなら時間がかかってもそちらに回ればよい。囲ケ岳からの直登を選択し息も絶え絶えに稜線に達したジイジ達にその甲斐あっての絶景が待っていた。しばし「南海部の北壁」に感嘆しつつ猿嶺に達したのはちょうど12時であった。さてさて今回もジイジ弁当を開くのが楽しみである。もう説明は不要、紅茶にレモンの輪切りを準備する見かけによらぬ繊細さもある。遠く右手から尺間山、椿山、冠岳、楯ケ城山と続く稜線の絶景も最早眼中にない。

アルコール抜きの宴会を一時間も堪能して下山。田舎ではアポなしにどの家にでも押しかけて文句を言われることはない。小半集落に古老(95歳、91歳)を訪ね、懐かしいふるさと話が花開き至福の時間が流れた。

別れ難いが日が沈む。佐伯藩の文人「明石秋室」が漢詩を詠んだ奇勝「仏座」を堪能し三悪人は散会した。次の獲物を夢見て三悪人はそれぞれの穴倉で心地よい眠りについた。

囲ケ岳、猿嶺 2023-12-10 / 南海部に天空路を拓く会さんの鎮南山の活動データ | YAMAP / ヤマップ 

南海部北壁、楯ヶ城山単独登頂 SOGs75 #12023.12.03

副題:新米ジイジの握り飯

玄関を出ると気温2℃、今日は「楯ケ城山」に登る。「日本一大水車マラソン」の日でもある。交通規制を避けて「先輩ジイジ」が八時過ぎにはピックアップしてくれる手筈。ところが急な事態発生でキャンセルの連絡が前夜に入った。決行延期としたものの目覚めると何という好天、性格的にはせっかち、来週まで待てない、だから一人で行こう。

その場合、あの「ジイジの握り飯」が食えない。「新米ジイジ」が自ら作るしかない。先輩ジイジのように何個作っても常に正三角形の完璧なものは諦めて、焼きタラコを詰め込んだ砲丸玉のような握り飯一個をこしらえた。

不運は重なるもので山登りに欠かせないストックが壊れている。裏の畑の作物の支柱だった白骨化したような枯れ竹を探し出してきて代用する。命を預ける事になるやもしれぬ、幾重にもガムテープで補強していざ出発。

道すがらの番匠川の渓谷景観は相変わらず素晴らしい。ここを四百余名が走る。ランナーは幸せ者である。ただ、記録にこだわるようだとこの絶景は目に入らない。

さて麓でランナーが汗している頃、山では息も絶え絶えに新米ジイジはもがいていた。何だ、いきなりこの急登は。その傾斜角は高齢者には呵責、心拍数も急騰。尾根が見えるのに一歩が出ない、一歩で滑る。厚い落ち葉は下り時には凶器に転じた。

やっとのことで尾根まで出てへたり込んだ。その後は尾根伝いに比較的楽な登り。展望は豊後大野、臼杵方面限定、”佐伯方面は全く見えず”、頂上の標識は”臼杵山岳会”。「本匠五山」と呼ぶのが躊躇われるではないか。

折角の新米ジイジの握り飯は昼食には早過ぎて頂上で食うに能わず、家に戻って昼時に食った。具のタラコは焼き過ぎて石のように固く、米は粘着性が強過ぎて米粒感が皆無。先輩ジイジの握り飯が如何に卓越していたかを思い知らされた登山でもあった。

楯ヶ城山 / 南海部に天空路を拓く会さんの鎮南山の活動データ | YAMAP / ヤマップ