文人墨客逍遥路プロジェクト

  この地は江戸期には佐伯文庫で世に光彩を放ち、四教堂は学問の府として城下の多くの子弟の才能を拓いた。その精神を引き継いだ先覚者達は多才な文人墨客をこの地に呼び寄せた。その足跡を辿り心豊かなる時の流れに暫し身を委ねてみるのもいいものだ。

上図は、近年、佐伯地方を訪れた文人墨客と佐伯出身の先覚者との関係を示す。

国木田独歩は佐伯をこよなく愛し、僅かな滞在期間にも関わらず佐伯地方を隈なく逍遥した。ワーズワースを信奉した独歩にとっての湖水地方(ワーズワースが終生を過ごし詩作を練った地)がまさに佐伯地方であった。

独歩は二度、銚子八景(旧中野村)を訪れているが、その道順は明確ではない。上記ルートは同行者の日記から推測した逍遥ルート。

独歩は東京から山口の実家を訪れた後、松山経由、船で佐伯入りした。正月には実家に帰省、熊本経由で大分・竹田に入った。そこからは徒歩で佐伯に帰任した。

多くの文人は徒歩で佐伯入りしている。広瀬淡窓、国木田独歩(帰省先からの帰任路)、種田山頭火の佐伯までの行跡を追った。

「佐伯地方は予期したよりいいところでした」(山頭火)

広瀬淡窓は師である松下筑陰に師事すべく佐伯の四教堂に遊学した。上図はその佐伯入りの行跡である。後年、その旅路を懐かしく振り返り漢詩を残している。佐伯地方が如何に豊かで風光明媚な地であったかが謳われている。

上図に広瀬淡窓と種田山頭火の歩行距離と歩行速度を比較してみた。健脚ぶりがうかがえるが当時の日本人にとってはこれが当たり前のことだったのだろう。

武者小路実篤の「新しき村」建設には佐伯出身の歌人加藤勘助の果たした役割が大きい。上図はその新しき村発見までの行跡である。

上表は、佐伯地方への歴史に著名な文人墨客・武人達の来訪の可能性を含めての来訪者リスト。