古戦場探訪路プロジェクト

  佐伯地方の主たる古戦場は大友義鑑(宗麟の父)と佐伯惟治との栂牟礼合戦(攻城戦)、島津勢の豊後侵攻時の島津家久と佐伯惟定との堅田合戦(野戦)、明治期の佐伯地方全域を舞台とした西南戦争(山岳戦)があげられる。西南戦争の合戦規模は田原坂に比肩すると言われる。新選組最強の剣豪であった齊藤一も参戦し負傷している。

 それぞれに切なく哀しい伝承が各地に残されている。それ以外にも、佐伯地方では、古来、多くの外部勢力(大内氏、河野氏、島津氏)との海上戦も経験してきた。 海の民の誉が刻まれている。

大友勢の二万の兵をもってしても栂牟礼城は落ちなかった。城主の佐伯惟治は大友勢の卑劣な罠にはまり城を開け渡し、日向に落ちていく先に伏された大友勢の手先に討たれた。幼い嫡男も義鑑からの冤罪の報が届く直前に自ら命を絶った。

旧主佐伯氏の栂牟礼城址より新主毛利氏の佐伯城址を望む。中世と近世の山城が並立する様は感動的である。

宇山城址より堅田合戦地を遠望。この地で佐伯勢は薩摩勢を徹底的に打ち負かした。

島津勢の侵入可能口(三口)に兵を伏す。島津勢は堅田口より侵入、岸河内焼き討ちで開戦。

堅田地方一帯で攻防戦が展開。

堅田地方は古くより外部勢力の攻撃目標となってきた歴史を持つ。

豊薩合戦では島津勢は豊後に侵攻、蹂躙の限りを尽くす。

大友傘下の各地の城主は開城あるいは内通で悉く島津勢の軍門に下る。

大友傘下にあって唯一、岡城主志賀親次佐伯城主佐伯惟定の若き二将のみが島津勢を退けた。

大友傘下の各城の状況。

大友氏は豊臣秀吉に支援要請するも豊臣大友連合軍は戸次川戦で敗退、長宗我部元親の嫡男信親が敗死、元親の落胆はその後の領国経営に影響を及ぼした。大友義統は逃散、豊後徐国の伏線になった。

豊臣勢力の本格参入により島津勢は退却、降参するに至る。豊臣秀長は島津攻めの途上佐伯に宿泊、佐伯惟定が島津攻めの先導役を務めた。

西南戦争時、これに対応する為に重岡分署が置かれた長昌寺、官軍谷千城、児玉源太郎も滞在した。

見明峠、切畑村に本拠を置いていた薩軍はこの峠を越えて宇目まで撤退していった。

陸地峠、雨中、激しい攻防戦が繰り広げられた。麓では今も銃弾が数多く見つかるほどの銃撃戦が展開された。陸地峠は日向北川と佐伯を結ぶ物資補給路上にある。弾薬尽きた薩軍はこの峠から退却していった。

三国峠への道、難攻不落のこの峠の攻防線が戦争の分岐点となった。官軍の奇襲に敗れた薩軍は防衛線を突破され日向へ撤退していくことになる。ここを守る薩軍は日向飫肥藩士、官軍の奇襲隊に全員刺殺された。

後年、種田山頭火がここを行乞、「日が落ちかかる その山は祖母山」