ふるさとの人々

<凧揚げ> 2024.04.18

「国木田独歩の煙草山」が全貌を現した。番匠川の河川敷に立った時の事である。その上流には椿山の巨体もよく見えた。余談ながら、実は椿山がもっともその威容を誇っているように見えるのは木立からの眺めである。元越山の麓に住む木立の人々は元越山の全貌を目にする事は難しいが、椿山の偉大な全貌をいつも眺めて暮らして来たのである。元越山より椿山に登ろうとは思わなかったのだろうか。下宿先からこの光景が見えたら独歩は間違いなく元越山ではなく椿山に登っただろう。椿山は名山に連なったはずである。

今日はその木立に住む御仁のありがたい計らいで河川敷に凧揚げ挙行となった。凧にカメラをつけて各地の風景を空撮し続けて来た知る人ぞ知るその道の草分けである。その写真が360度のパノラマになっているから更にすごい。連写した一枚一枚を繋いで仕上げた。今後、そういう風景はもう手に入らないだろう。

凧揚げなど記憶の限り小学生の頃に冬の刈田に経験して以来である。糸がグイグイ引いてくる。手袋は必須である。手作りの凧の中でもっとも小さいものらしいがこの引きだ。これに倍する凧だと小柄な御本人を軽々と宙に引き上げてしまうのではなかろうかと想像してしまう力強さである。これが揚力というやつだ。

風向が定まらず凧が一点に落ち着かない。オホッオホッ、イヤイヤイヤイヤ、チョッチョッ、アヤヤアヤヤ、気付けば自分でも訳の分からない言葉を連発している。凧は上がったものの優雅に舞ってはくれない。

これにカメラを取り付けて連写で空撮する。何がどのように写ったかは後で再生してみないと分からない。リコー製の360度撮影を可能にするThetaを取り付けると更に迫力のある風景が撮れる。球体の中心からあらゆる方向が見えるようなものでカーソルを動かして画像を見ていると目眩がしてくる。世界中に愛好者がいて写真を公開しているが流石に空撮画像は見ない。この凧の独占状態と言ってよかろう。木立の”お宅部屋”にお邪魔し再生画像を楽しませて頂いた。こうして写真をじっくり眺める時代は去ってしまった。そもそもアルバムが消えた。一枚一枚大切に撮影する事もなくなった。手軽に無制限に写せて即座に再生出来る。我々は写真をじっくり眺め楽しむ時間を奪われた事に気付かない。

人々が凧揚げする光景そのものも消えてしまった。昔は旧暦の正月に凧を揚げた。今の立春の頃である。立春の季節に空を見上げるのは健康に良いと言われたかららしいが、いやいや、凧を揚げていて空を見上げる余裕なんてないのだ。そう言えば子供も大人もゲームという新たな娯楽の登場で下を向いてばかり、上を向くことが少なくなったのではないか。空を見上げていると確かに宇宙のエネルギーが降り注いで来て健康になるような気がする。

だから人々は端午の節句にも健康を祈って凧揚げをやるようになった。そう言えば孫の初節句が近い。この凧揚げで早めに健康を祝ったと言う事にしておこうと邪な事を考えてしまった。そう言う精神はたとえ空を見上げても健全ではない。

凧揚げは中々いいものだ。

<神楽が来た> 2024.04.07 & 09

半世紀振りに我が地区に神楽が来た。”上”と”下”の集落で別々に祭祀を行って来た不思議な地区であるが、だから神楽もかつては別々に行なっていた。我が下の集落では家の前の田んぼに舞台を設えて舞っていたが過疎化のせいで上と下はまとまらないと何もやっていけない。だから今回の神楽は地区のグランドに舞台を設えて上下一緒に行ったのであるが、どうして半世紀振りなのかは聞き漏らした。昔から「宇目重岡神楽」を招いている。

幼い頃の記憶が曖昧だから今回初めて神楽を経験するようなもので、生憎、途中から土砂降りの雨に祟られ中断を余儀なくされたものの、舞台に天幕を張ってやり終えた。

演じる側も見る側も大変な思いであったろうが、笛、太鼓の音も雨音に負けじとより高らかに闇夜を切り裂くようで、いく筋の激しい雨が銀色に光を放ち、だからか大気はまるで神気を帯びているようで、そこに煌びやかな衣装の勇壮の舞いが最高潮に達し、いやはや感じ入ってしまった。

重岡神楽は大野系の「岩戸神楽」である。知識を仕入れる事はそう難しい事ではないが、このままでは何か消化不良で物足りない。神楽の内面を覗いて見ずには分かった事にならない。こういう時に頼みもしないのに決まって友が手を尽くしてくれるから有難い。後日、別の「神楽座」の指導者を紹介してもらい二時間ほど自宅にお邪魔して話し込んでしまった。様々な手作りの面(軽い桐を使用、出雲では和紙)や衣装(相伝)や必要な道具を見せてもらい、演目の構成(最大二日間で33演目)や手順(顧客の要求時間に合わせて演目を調整)、舞の基本や心構え、時を忘れて話し込んでしまった。

事前学習で神楽とはそもそも流派が様々である事を知ったが佐伯地方でも一様ではない。やはり聞いてこそ。流派により太鼓のバチの長さが違う(大概、シナリのいい葛を使う)、太鼓の置き位置や角度が違う、笛の音や面で流派が分かる、足の所作で舞の良し悪しが分かる、ゆっくり舞う方が早く舞うよりきつい、だから舞っている間に如何に休むかが疲労度を抑え上手く舞うコツである、面は神楽の魂のようなものだから拝んでつける、神と同化したような陶然とする舞の瞬間もある、何とも奥が深い。

大分県の神楽は娯楽性の強い「岩戸神楽(面や衣装を変えて舞う)」と神事色の濃い「採物神楽(面をつけず鈴、御幣などの採り物で舞う)」に大別されるが、前者は豊後大野に発祥した大野系が勢力を持つ。佐伯神楽は後者であり蒲江にその神楽座が多い。そもそも神楽は近年になって神職や氏子により再構築された。神職や社家により催されて来た本来の神楽は明治期に国家により禁止された為である。だから再構築したところが本家として勢力を伸ばしていったのである。

佐伯地方では岩戸神楽は宇目、葛原浦、丸市尾浦に伝授されて残っているが、それでも大野系と日向系の違いがある。大野系に至っては三流派に分かれている。民俗芸能というものは結局のところ流派を成すのである。今や無形文化財に指定されるか否かはその勢力の大きさに負うところが大きい。演目に大きな相違は見出し難いからであろう。

お邪魔したこの指導者は今年、地元の春の神事の世話役にある。生憎、本人の流派(岩戸神楽)とは違う「湯神楽(佐伯神楽系)」による神事だそうである。「獅子舞」でもやって盛り上げようかと半ば本気である。調べてみると「里神楽(宮中神楽ではない神楽)」は、巫女神楽、出雲神楽、伊勢系湯立神楽、獅子神楽と分かれている。何だか混乱して来た。こっちも知識の再構築が必要になって来た。

湯神楽に獅子舞を入れる。それはそれで現代における新たな神楽の組み立てと言えるのかもしれない。

<目撃者になろう、大団円> 2024.03.31

「みんな誰もまだ下山していない。」

「波当津海岸」に下山し遂に完踏を果たした「多分、風。」さん(YAMAP通称)が、取材記者にそう言ってくれたらしい。これからも佐伯の山々を楽しむ事を止めない仲間達だと告げてくれたのだ。胸に迫る言葉である。

この日、彼は佐伯の周回尾根、総水平距離150kmを完踏したが実際にはこれに尾根のアップダウン分40kmが加算される。重複分もあり都合250kmを歩いた。正味24日、一日平均10kmの山行で最高地点は傾山の1605m、最低地点は今回の波当津海岸の0mである。因みに彼が出発した「蒲戸崎」から終着した波当津海岸(宇土崎)までの佐伯地方の海岸線は総水平距離270kmある。ほぼ同じ距離としてもエネルギー消費量の相違は想像を絶する。

 この偉業を淡々と終わらせては共に見守って来た身としては釈然としない。急遽、仲間と「横断幕」を製作して出迎え、記念品として贈呈した。こちらも幸福感に満たされた瞬間であった。

お互い山の頂きに登る事以上に尾根を歩く事を重んじて山に入る。ひたすら歩くだけなのだが、じわーっと心に満ちて来るものがある。踏み締めて行く大地といつの間にか対話している気分になってくる不思議がある。

佐伯の海岸は沈降海岸だからその海岸線は山裾でもある。出迎え組は、佐伯の「岬巡り」と称し、同じ蒲戸崎から南下してその山裾を「仙崎山」までは辿っていたが、この日、残りの海岸線を波当津海岸まで完走した(天空路ブログ・ふるさとの光景 <岬巡り>2023.07.02)

 車走であるから全く比較になるようなものではないが、佐伯地方の境界線を尾根と海岸から、この日、ここ波当津海岸で繋げたのだ。但し、「名護屋崎」を除く(いずれ突端まで歩く予定)。

 佐伯の山も海もその景観は想像を絶する美しさである。歩いてこその”美観”も生じてくるのである。それがひっそりと佇んでいる。”宝物”が埋もれたままにある。何より地元の人々がその事を自覚していない。

 今日も新たな発見があった。「葛原浦」の名前の由来になった不思議にも九州にはこの一角にだけしか生育しない「カマエカズラ」が岬を上から下まで覆い尽くしていた。これから紫色の花が開く。この海岸絶景に更に色を添えることだろう。

 記者にも教えてあげたが、こっちの方が新聞ネタ受けするだろうな、と不謹慎にも思ってしまった。海岸にいた大分市からの写真愛好家のグループに出迎えの”サクラ”になってくれる交渉も成功していたのだが下山が遅れ帰ってしまったが、同様にカマエカズラには興味を示した再訪は間違いない

 この地方の素晴らしい自然の取材ネタは山にも海にも尽きる事がない。

<Von boyage !> 2024.03.28

「本田重工業」で進水式を見学、感慨深いものがあった。不覚にも現役時代を思い出してしまったのだ。関西の財閥系メーカーに勤めていた時の記憶である。工場の肌合いが実に同じなのである。加え船である。数百億円規模の大型海底電力ケーブルの国際EPC入札に長らく携わって来た事にある。

当該ケーブルの輸送と敷設には一万トン級の敷設船を確保出来るか否かが競争力を左右した。欧州勢に対して船を持たぬハンディを如何ともし難かった。船は常に外部にチャーターするしかなく自前の敷設船を持つ事は念願であったが叶わなかった。装備は全く相違するが目の前で同じ規模の船が見事に滑るように進水して行った。進水レールは滑車によらず”獣脂”を敷いて滑らせる方式をとっていて大変珍しい方式らしい。

さて、式典中は何処からでも視野に入ってくる霊峰「彦岳」と今花盛りの山桜が気になって仕方がない。彦岳は、古来、この湾の安全航行には欠かせぬ守護神でじっと進水式を眺めている風であった。山桜も曇り空故か今日は山肌に静かにしていた。

進水式の神事も気になってくる。「五所明神」か「大宮八幡」あたりの神職なのだろうか。江戸時代には「大入島」にあった「柴田氏」が藩の神職を勤めており、この湾一帯の寺社にも多く由緒を残している。佐伯地方の柴田姓のルーツでもあるがその子孫は神職とは今は既に縁が切れている。それでも神職を見るとその一族の伝承譚が故に気になるのである。

更に気になっていたのは「国木田独歩」が訪れた「妙見神社」への表参道である。地図からは造船所の敷地内にある。独歩は佐伯を離任する時に葛港の北に突き出た「警報竿の丘」に登って佐伯の最後の日を過ごした。その奥にこの妙見神社がある。独歩はこの丘であらためて佐伯湾の絶景に感嘆しその足で丘を越えて妙見社に向かい「六歌仙の献額」に見入った。船を待つ間のひと時である。今もその献額は残っている。

その丘の北麓にこの造船所がある。その時代からあるこの造船所を独歩も見下ろしたに違いない。勿論、彦岳も見えた。在伯中は造船所のある「坂の浦」を歩いているから、造船所の側を通った事も確実である。だとするとその表参道が気になって仕方がない。独歩がそちら側からも登ったに違いないのだ。「妙見鼻」でも泳いだ。その参道の場所を聞き漏らした。因みに坂の浦は大入島の柴田氏の分家地でもある。末裔が今は造船所と関連する会社を営んでいる。

進水式にも関わらず脇見が多くなったが、ここは「海部の民」の本拠地で歴史民俗が詰まっているところなのだから仕方がない。「海人族」の末裔達が今もこうして船作りを営む光景はとても誇り高く気分がいい。

その末裔の自分が船で現役時代に煮湯を飲まされた。ふるさとを逃げ出した自分には祖先神は側に居てくれなかったのであろう。ただ、気がつくと終生海に関連する仕事に携わっていた。船を持たずとも知恵を絞り競合社の牙城であった欧州市場に初参入した事を思い出したのである。英国とベルギーを繋ぐ世界最高電圧、成約額2百億円とかつてないエポックメイキングの商談(Nemo Link)であった。今もその海底ケーブルはドーバー海峡の海底に目立つ事なく静かに横たわり膨大な電気を送り続けている。

ふるさとを逃げ出しても結局は海で生きたからこそ祖先神が欧州の海で後押ししてくれたのだろう。夢を描き追い続ける事の大切さを実感した事業でもあった。

だから進水式は”ふるさとの心”の象徴のように思えても何ら不思議ではないのだ。Von voyage !

<音は低きに流れない> 2024.03.24

友人に誘われて桜ホールに「Brass Festa in Saiki」を聴きに行った。今回で32回目になるそうで中学、高校、一般からの吹奏楽団が一同に会した。生演奏から遠ざかって随分と久しい。

このホールは音響設計が素晴らしくプロの演奏家にも評価が高いと聞いた。もっともそれだけの音質を聞き分ける能力は自分にはない。そもそも音感がない。その癖、楽器演奏に憧れて大学時代は吹奏楽部でバリトンサックスを吹いた。後年、歴史的にもっとも演奏の質の高い世代だったと先輩が漏らした。道理で一年で挫折する訳だ。

音響設計は直接音と反射音のコントロールにある。反響と残響の塩梅にある。理屈では分かっていても聴く能力の改善には全く役に立たない。無論、音響設計以前に演奏者と指揮者の力量がものをいう。

中学、高校、一般と演奏が続くと流石にその演奏の質の違いは分かる。経験の多い順に聴き応えが出て来る。ただ音響設計が良いせいか演奏が丸裸にされているようでもある。高画質のテレビに晒される女優の肌具合のようなものだ。

最後は中学、高校、一般の合同演奏で舞台は所狭しと百人を超える大演奏になった。これでは流石に聴かせるには無理があろうと思った。たどたどしい中学生、それなりの高校生、相応に安心の一般人、それが混ざるのだから。何と意外や悪くない。一般人のレベルと遜色ないとさえ感じた。これは果たして指揮者の力量というものなのだろうか。

水は低きに流れる。悪貨は良貨を駆逐する。音にはそれが無いのだ。隣のいい音が低きを引き上げるのだ。もっとも音感を欠いている人間の言い分だから信ずるに値しない。

「芸術文化」について久しく考えた事がなかった。いつもは山野をひたすら歩き回り、埋もれた「民俗文化」の発見にうつつを抜かしている。画竜点晴を欠く。芸術文化無くして民俗文化も無いのだ。逆もまたしかり。感動こそが全ての文化の原点である事をあらためて教えてくれた演奏会であった。

それでも、たまには野に出て自然の音を聞け、美しい風景に心を震わせろ、と言いたくもなった。演奏は演奏者の魂の問題でもある。感動こそが人間性(魂)を磨く。それが表現力を豊かにする。何しろこっちは自然という指揮者に鍛えられているのだからこれだけは自信を持って言えるのだ。

感動は常にそれぞれの孤高である。

<木立の空の下> 2024.03.18

現役時代、「パノラマ写真」を見て帰れぬふるさとを懐かしんでいた事がある。都会や海外で必死に生きていた時代の事である。遠くに行けば行くほどふるさととの磁力が強くなっていく感覚があった。SNSも未だ発達しておらず、記憶の中の不確かな映像の中にふるさとを探すしかない時代だった。

そういう時にパソコンで偶々見つけた「パノラマ写真で見る大分県」を飽きる事なく眺めていた。そういう時代があった事を久しぶりに思い出したのは、その撮影者本人が目の前にいたからである。木立のご自宅で面談させて頂いた。

当時は(高所から)細切れに撮った写真を繋ぎ合わせてパノラマ写真にしていたそうである。継ぎ目の分からない画質はその非凡な技術を証明している。空撮は凧を上げて撮影している事も初めて知った。ドローンを飛ばせば簡単に空撮が出来る時代になっても未だに凧を飛ばして空撮に挑んでいる。味のある写真が撮れるしドローンのように制約を受ける事もないと淡々としたものである。オン歳、80歳。今も遠くふるさとを想う人々から地元の空撮の要望が後を絶たぬという。

以前、佐伯地方の古い写真を求め探していた事があった。先祖達の生きて来た暮らしに思いを馳せ未来に物語を繋いでいく為に「佐伯地方の懐かしい情景」(資料No.18)や「独歩とワーズワース的世界(2)」(No.23)にまとめた。

南海部に天空路を拓く会 - 資料室 (minamiamabe.com)

その原本は「善教寺」で発見された「皇太子殿下行啓記念南郡写真帖」によるものであるが、同じ場所から同じ光景を撮影し「写真帖佐伯今昔」(四教堂塾)として出版されている事を知った。しかも”今”の光景はご本人が撮影者だと分かった。奇縁と言わざるを得ない。

さて、この歳にしてSNSを自在に操る事も驚きであるが、撮影にかける創意工夫の見事さである。自ら凧を作り空撮の塩梅を想像し、吊るすカメラの取り付け方を思案し、全てを風に委ねる。そうしてこれまでの数十年、その魅力を伝え続けて来たのである。空撮の草分けである事は数々の顕彰の事績を見れば納得であるが、写真の魅力はそういう精神にあるのかもしれない。

羨望の”男の隠れ家”に案内して頂いた。そこから屋根の上のベランダに出ると天体観測の為の赤道儀を据え付けた台座があった。写真はてっきり天体望遠鏡によるものかと思えばカメラに望遠レンズをつけて撮影していた。それでもあの天体写真の鮮やかな色彩である。

不思議な事に木立は隣の堅田に比べて歴史的史跡が殆どない。だから佐伯地方の中で自分としてはもっとも知見が乏しい。唯一、元越山が後ろにでんと構えていて木立の代名詞のようになっている。

その上の空を眺めながら、「天体観測にはここでは市内の明かりが邪魔でしょう。私の地元の本匠の夜空は木立より見事ですよ」、と言うと「本匠の空は狭い」、と瞬時に切り返されてしまった。痛いところを衝かれた。己がふるさとを捨てるように出て行ったのは、まさにその「空が狭い」事にも一因があったのだから。

あらためて前山に隠れて見えない元越山の方を見ていると左手に鶴見半島に繋がる魅力的な尾根が目に止まった。現金なもので関心は既にあの尾根を歩くことに移っていた。未だ肌寒い木立の空の下の長滞在はあっという間に過ぎて行った。

ご老体、その熱い想いがある限り未だ未だやれますね。

老後の趣味は天体撮影・凧から撮影・パノラマ撮影・立体撮影などカメラ写真 (fc2.com)

<恒例行事> 2024.02.28

 今や"高齢行事"としても意味は同じかもしれない。

10年を超えて何と毎月一回、気の合う仲間が集まって会食し今に至っている。そうかと思えば、娘達が巣立って久しいのに、”桃の節句”が迫ると毎年菱餅と桜餅と蓬餅を自ら作って親しい人達に配っている仲間がいる。初めてその会食に参加させてもらい、初めてそのお裾分けにあずかった。実家に長逗留しているとそういう幸運にも恵まれる。

着座し開口一番、「よくも飽きずにそんなに長く続いていることだ。一体、何をそんなに話す事があるのだ。」、そう揶揄しても「つまらん話がこれまた楽しいのだ。」と軽くいなされた。懇親会や会食というものは恒例化されると、その内、面倒臭くなってくる。やがて義務的出席に陥り多くは長続きしない。10年以上、しかも毎月続いているこの会食は既にそこを遥かに超えている。言わば熟成の域にあるのだ。その事に気付いているのか否か彼らには最早それもどうでもいい事なのだ。

こっちは初めての出席だし何より昔は人付き合いが下手で参会者の面々とはさして深い付き合いでもない。だから少し緊張もあり不安もあったが、その”熟成の坩堝”は異分子のつまらぬ意識を容易く飲み込み消し去ってくれた。本来あるべき”恒例の行事”となったからこそ醸しだす妙味と心地良さがあった。いい一晩だった。

桃の節句が迫るこの会食の当日に出席前の不安を抱えながら家でぼーっとしていると、突然、玄関先で「いるか?」と声がする。「桜餅と蓬餅を作ったので食せ。」と手渡され、「今、菱餅も作っている。固まるまで暫し時間がいる。」、と言い残し帰って行った。

翌日、新たな桜餅と共に菱餅が届けられた。菱餅がずっしりと重い。いずれも毎年、知り合いに届けているらしい。菱餅なんてこの方実物にお目にかかった事がない。製造過程の写真を見ると大層な道具が必要だと分かる。意外な才能と言わざるを得ない。それ以上にもう役目を終えたに等しい”恒例の行事”を今に至るまで家庭に営んでいる事がいい。

菱餅は未だ食していないが桜餅と蓬餅は意外に美味かった。母と共に桃の節句を待つ事なく一気に平らげた。

"幸福"とは「人が喜ぶのを見るのが一番幸せに感じる事」だと何処かに書いていたような。それを”愛”と言い換える事も出来る。前段の会食や後段の餅配りに共通の”恒例となった行事”の意味するところは究極、そういう事ではないかと思うのである。

<"ハルちゃん"が待っていた> 2024.02.16

 「佐間ケ岳」(328m)は本匠側から登って初めてその魅力が分かる。低山ながらも周囲の空間を圧してどっしりと腰を下ろした巨人のように見事な姿をしている。この山の秀麗な姿はその巨人の肩から袖に当たる尾根の形状の素晴らしによる。だからその尾根を歩かずしてこの山の魅力は分からない。眺める度にそう思って来た。

一方、麓の「笠掛」集落からその尾根を越えて隣村に出るかつての要路が「尾岩越」である。ここを歩きたかったものの機会を得なかった。最近、近傍の森林が伐採されて尾岩越の峠が現れた。矢も盾もたまらない。あの峠を越えたい。そしてそこを向こうに降りずにその長い尾根に取り付けば絶妙のルート選択にならぬかと。

笠掛集落は藩政時代に旧中野村の大庄屋が置かれたところで、「尾岩越」、「切畑越」、が交差する交通の要衝であった。田地は多くないが旧中野村で最も人口が多かったのはそのせいであったろうか。

集落の保食神社下にあり、「河野文書」が出た大庄屋の屋敷は取り壊されて今は無い。その神社脇からが尾岩越への登り道だったらしいが、佐伯氏の旧都「古市」にあった「善教寺山門」が移設されている「福円寺」横の山道を辿った事が失敗であった。初っ端から道が途絶えて山中を迷走である。因みにこの峠を越えて祖母は尾岩から嫁いで来た。

峠は防獣ネットで塞がれていて越えられなかったが見事に「堀切」されていた。「国木田独歩」が尾岩側からこの峠に達したとすれば、目にした光景に感嘆したのではなかろうか。堂々たる「米花山」が眼前に現れるのだから。そしてその手前に目的地、「銚子八景」に続く「三股越」の尾根が続いている。

ここから頂上を目指した。一部、背の高いシダが密集し「藪漕ぎ」に往生したが、そこを除けば頂上まで案の定、素晴らしい尾根が続いていた。途中、尺間山、椿山、そこから冠岳まで続く稜線の眺望が素晴らしい。頂上に向かって尾根の左手「弥生」側は杉林だが、右手本匠側はウバメカシの自然林で木漏れ日の林が美しい。

頂上に達すると壊れかけた三基の石祠が立っていた。一つを除いて破損が進み最早何を祀っているのか分からない。その一つも石祠の文字は掠れてよく読めないが、脇面に「願主橋迫長門」と刻んであった。弥生側の麓にある「八坂神社」(神主は橋迫氏)が祀ったものと分かる。調べると明治時代に八坂神社に合祀される前は、ここに「龍王神社」の祭神の「水波売大神」(女神)を祀っていたようだ。水神様である。「イザナミ」の尿から生まれた神だ。この地方の名だたる山上には水神を祀った石祠が多い。父祖達が水不足に苦労した事が窺われる。石祠の前に明らかに折れて無くなったと分かる小振りの鳥居跡がある。ここは神社だったのだ。弥生「切畑」側を向いている。

下りは登りと反対側の尾根を伝って三股(大良)側に降りる予定だったが、進路が急峻過ぎて本来の尾根を見出せず、諦めて手前尾根から下山した。

この判断が「一期一会」、ハルちゃん(80歳)との邂逅をもたらしたのである。自称ハルちゃんは畑で草むしりをしていた。挨拶すると色々聞いてくる。田舎では大概そうなる。こっちも色々里の話を聞く。母と旧知と分かった。その息子だと知るともう放さない。辞去しようとすると家まで連れて行く。米、炊き込みご飯、漬物を持って行けと勝手口から持ち出して来る。固辞しても聞く耳がない。見送りに着いて来て、それでも足りないと思ったか、先ほどの畑に入ってブロッコリーを摘んで来る。「これも持って帰れ」。

「歩く旅(道)」とは、結局、そういう事なのである。思わぬ発見がある。予期せぬ一期一会がある。これがリピーターを作る。

ハルちゃんの家を後にして歩いていると、道沿いの小川に覆い被さるように白梅が満開であった。

<若者はいた> 2024.02.08

Savoy”の主人から、「夜、空けておけ。」と随分前に連絡があった。当日、流石に何があるのだと問い詰めると、「本田重工(造船)の社長が来伯中で若者達と懇親する。お前も出席して喋れ。」との段取りがついていた事が判明した。

佐伯に滞在中は大体が高齢者としか対話する機会がない。果たして旬の寒鰤のような、いきのいい若者が佐伯にいるのだろうかとさえ疑っていたのだ。これまで佐伯の若者とは全く接点をつくれなかった己を恥ずべきところではあるが。だから気持ちが昂らない訳にはいかない。ここは主人の心憎い計らいに感謝しかない。

市内で頑張っている大勢の若者がゾロゾロと参集してきた。本当にいたのだ。我々高齢者を入れて総勢二十人、社長の人徳でもあろう。多分、自分の娘と同じかそれより若い世代だ。娘との会話も覚束ないのに彼らと果たして会話が成り立つだろうか。比較にはならぬが、先日は中学生を相手にして少々落ち込んだばかりだ。

ただ、そんな事は知った事ではない。こちらは喋る事そのものが生き甲斐なのだ。いつもの悪い癖は相変わらずで制止されない限り話の終わりは来ない。会社時代には「柴田に限って喋りは三分まで。」と条件がついていた位の喋り好きなのだ。

主人がまたそれを助長する。「こいつのブログは面白いぞ。騙されたと思って見てみろ(そこまでは言わなかったかもしれぬ)」。何だ。都会の若者達とちっとも変わらず、むしろ生き生きとしているではないか。あの時代の若者達ともさして変わりはしないのだ。我々がかつて追い求めたような気分が彼らの中にも横溢していて何だか嬉しくなった。 

だから、いつもは飲まない酒が今夜はすすむ。通常は缶ビール一缶もあれば深く酩酊し崩落する。それを超えて立て続けに芋焼酎の水割り三杯だ。喋りはイマイチにしても今日は調子がいい。年甲斐もなく熱くなった。何しろ耳の遠い老母と毎日どうでもいい噛み合わない会話ばかりなのだ。

帰宅すると自己嫌悪のいつもの孤独な夜が待ちうけていた。だが、若者は確かにいた。それだけで暫くは佐伯で頑張れそうな気がして来た。

<老木> 2024.01.25

以前、地元森林組合の若手に林業の実態について話を聞く機会があった。                                      本貢 <若木> 2022.10.29

「自伐型林業」という耳新しい言葉に出会った。その現場を案内して頂いた。この若手にではない。歯科医をやっておられ山主でもあるT氏にである。延岡市北部に所有する「無田の森」と「松内の森」がその現場である。「自伐型林業」の試みとしては九州にはこの山を含めていくつかの現場はあるようだが貴重な機会を頂いた。

佐伯地方に「山と里と海を歩く道」を拓くことを夢見ている者として特に林業との関係性は重要で、その試みに何かヒントがあるのではないかと今回招待して頂いた。「令和四教堂市民講座」の方々の参加もあり佐伯地方の未来への取り組みの一つとしての期待も大きい。どちらかと言えば、世評は海ばかりに目が向いているようだが佐伯地方は「林業王国」なのである。ただ「補助金」無しには経営が成り立たず、本来なら成立し難い産業である点にも留意しておく必要はある。

自伐型林業は、山が本来的にありたい姿を想像しこれに沿って林業が自立出来る取り組みであり全国的に広がりを見せている。極論ではあるが、「循環林業」を標榜しつつも「大型重機」を導入し、搬出効率を優先した「大規模林道/作業道」を無造作に造り、一気に「大規模伐採」を行い、結果的に山を傷め地域防災力を弱める林業の対極にある。仔細は下記を参照されたい。

NPO法人 自伐型林業推進協会 (zibatsu.jp)

その山林の美しさである。「適度の間伐(10年に一回、2割以下)」と地勢と植生に配慮しつつ排水機能と強度を持たせた「小規模な作業道(300m/ha)」を巡らせた森があった。隣合わせの「痩せた暗い森林」との対比が説得力を持つ。しかも山林の維持管理(植林、下草刈り、枝打ち等)に負荷はかけない。植林は最小限に「自然萌芽」を併用する。山の蘇生力を味方につける。一方、世の中の木材への見方も変化している。当節、昔と違って「節目」は気にしない。杉の枝は自然に落ちる。だから枝打ちはしない。視点を変えると新たな経営手法が見えて来る。

現下の林業が最善と考えているとそういうところに目が向かない。目が啓かない。林業に限らず経験主義や前例主義から一旦離れる柔軟性を持つと変化が生まれる。革新が生まれる。現状に対する批評の視点と問題意識がこれを可能にする。

この山の作業道はまるで「逍遥路」である。山林も何だか品が良い。何より美しい。自伐型林業が佐伯地方に広がればその延伸が「山と里と海を歩く道」に発展するかもしれない。注目せざるを得ない。

若木に劣らずT氏のような“老木”も未だ未だ思考は柔軟なのである。未来思考の新芽を発芽させ得るのである。そういう未来に繋がる活動をやっている老木達がすぐ側に枝を広げているような気がする。

<老人の領分> 2024.01.19

 「子供のごつあろう。相手するんが大変じゃのう」、老人が自虐的に病院スタッフに漏らしていた。嫌味ではなく老人達にとって偶には漏らしたくなる感情の一片なのだ。この街の病院内のあちこちで繰り広げられる光景の一つに他ならない。

 ここでは患者のmajorityは老人なのだから、耳が遠い、何事も覚束ない、記憶が抜ける、要領を得ない、そんな事はごく当たり前で、その事が引き起こす光景なのだ。

 病院スタッフも心得ていて対応が上手い。大声でゆっくり繰り返し喋り掛ける点は皆に共通している。場合によっては側まで寄って来てくれる。そう、子供に接する様に対応しているのだ。老人達もそこは分かっていて素直に従った方がいいと多分心得ている。ここでは情が通っているからそれでいい。スタッフも身内に同じ境遇を共有しているから自然に情が滲み出て来るのに違いない。

 都会の病院ではこうはいかない。老人患者は都会ではどちらかと言えばminorityだから肩身が狭い。スムーズな事務処理の進行の妨げになりかねない。子供に対するようには接してくれない。だから厄介者のような扱いに見えて来る。スタッフが事務的で患者を処理するかの如くで声も淡々として感情を抑制している。情が見えて来ないのだ。

 昨今、自分も都会の病院では老人扱いをされているように感じる事がある。もっとも世間の分類では「高齢者」には間違いない。ただ未だ老人と言われる覚悟は出来ていない。

 高齢者に属するその自分がこの街では壮年の部類に属しているような錯覚に陥る。悪い気はしない。圧倒的に後期高齢者(後期高齢者が妥当かもしれないが)がmajorityの世界だからそこに紛れ込むと勘違いしてしまうのだ。少なくとも子供に対するような接し方ではない。

 一方、この街でも病院を支えるスタッフと高齢患者の数のアンバランスは拡大していくことは避けられない。そうなった場合、最早、子供のように接してくれる保証はないのだ。まさに厄介な患者になってしまう可能性が現実味を帯びてくる。この街の今の老人患者達は幸せなのではなかろうかと思ってしまう

 さて、自分はそういう老人の領分にいつどのように入る事になるのだろうか。その前に病院に来なくて済むように健康管理に務める事が先決なのだけれど。因みに老人の定義はない。

<犬も歩けば棒だらけ> 2023.12.19

 1955年の町村合併法により「旧中野村」と「旧因尾村」が合併して「本匠村(現佐伯市本匠)」が成立した。「番匠川」の本流に位置しているという意味をその名に込めた。人口は中野村2,473人、因尾村2,558人の合わせて5,031人、予算規模は約30百万円であった。

 旧両村はそれぞれ歴史的背景を異にする。父祖の時代、旧因尾村は文化度が高く旧中野村からは羨望の目で見られていた。一方、旧中野村の人々は目立たぬように密かに暮らせと言い聞かせられてきた(因尾村で中野村のことをどう見ていたかは知らない)。

 旧中野村は佐伯地方において圧倒的に「名字数」が多い。この地域に外世界からの幾たびの移住者(避難者、落住者)が入って来たことを意味している。地勢的に暮らしを立てるのが厳しい地であったから先住者も少なかったろう。移住者達はそれぞれの谷筋を必死に開墾して暮らしを立てたに違いない。そこに「文化の香り」が立ちようがない。

 往古より番匠川が「海成石灰岩層」を穿って出来た峡谷は交通を拒絶してきた。人々は山を越えて外世界と繋がるしかなかった。山越えの峠道が近年まで「生活道」として利用されてきたのである。「井ノ上」と「小半」が旧因尾村と旧中野村の境である。褶曲する狭隘な峡谷が双方を遮断している。この上流に因尾盆地が拓け独自の文化が開いた。因尾の人々は番匠川を下流には移動しなかった。出来なかった。北に山越えをして「豊後大野地方」と交流し進んだ文化に触れて来た。両地区には外部世界への交流(因尾)と外部世界からの逃避(中野)という正反対の歴史がある。

https://bungologist.hatenablog.com/entry/2022/04/15/095058


 自称、晴れ男のはずが終日雨は止まなかった。「戸穴」の「遊志庵(アマベ研究所)」に招待されオーナーと懇談した。旧宅が古民家に改装され食事処となっていた。こんな不便そうなところで客商売が成立するのだろうかと疑心を抱きながら中に入ると満杯である。遠来客が多いときいた。要は質の問題なのである。魅力があるところには人も集う。

 未だオーナーとの緊張関係が続いている中に割って入って来た人物がある。このように空気を変じる人物も珍しい。意気投合するしかない。オーナーとの対話も消化不良のまま御仁に市内へと連れ出されることとなった。因尾出身のオーナーがもう半世紀もやっている佐伯では知らぬもののない喫茶店がある、連れていってやるという(こっちは初耳である)。

 白壁の土蔵を喫茶店に改装していたが遊志庵どころの話ではない。こんな分かりにくい場所に表から店の雰囲気を消してしまったような店に幾ばくの客が来るのだろう。

 入ると空気が何だかセピア色に見えた。ドアを境に流れる時間が緩んでいる。悪くない。やがて茶店のオーナーとも御仁同様に波長が合ってきた。二時間以上の長談話が成立したのだからそう言ってもいいだろう。御仁が次は歴史好きの知り合いに会おうと電話を入れた。気付けば願ったり叶ったりの「人渡り」が続いている。「犬が歩けば棒だらけ」の様相になってきた。そう言えば誰かに言われたような。これはお前にとっては「偶然ではない、必然なのだ」。

 店のオーナーに「矢野龍渓」の小説三部作があるから読んでみてはと託された。驚きである。久しく欲していた書物であるが何も話題にした訳でもない。だから必然を確信せざるを得ない。(訂正:菅一郎画伯のご子息、菅絃氏の矢野龍渓に関する小説であった。欲していたのは龍渓自身による小説「浮城物語」)

 さて何を言いたかったかというと「因尾人」でなければこういう美意識は出てこないということである。市内の「ふぐ料理」で有名な料亭も因尾人による。文化の薫陶を受けた因尾人でなければ乗り出せないそのセンスを思い知るのである。内に籠る「中野人」には越えられない壁なのである。

 今日は滅多にない雨模様である。晴れが必ずしも良いとは限らないな、と納得した一日であった。

<青殺> 2023.05.20

「青殺(さっせい)」、何とも非情な言葉である。茶の生葉がその酵素により発酵するのを熱処理して止める事をいう。「失活」ともいう。こちらの方が未だ茶に対して温情がある。「青殺」には熱を加える時の処理上の違いがある。「蒸して」発酵を止めるか、「炒って」止めるかの違いである。前者を日本式(蒸し茶)、後者を中国式(釜炒り茶)と呼ぶ。

最近、製茶の一番多忙な時期にも関わらず、因尾の製茶工場(釜炒り茶)を見学させてもらった。まもなく百周年になろうという貴重な大正期の木造建築でもある「故郷資料館(旧因尾村役場)」を訪ねた時に大気中に濃密な新茶の甘い香りが立ち込めていて茶の記憶が覚醒、いてもたってもたまらず見学をお願いしたのである。

「因尾茶」は世間では黙殺されているに等しいブランド茶であろう。佐伯地方の山間地に今も伝承されている釜炒り茶である。「宇目茶」も同様である。日豊は昔から政治的文化的関係が深いが、佐伯地方の隣に高千穂を含む釜炒り茶の主要産地の「旧西臼杵郡」がある。相接するこの日豊一帯は九州でも僻地性が濃く、釜炒り茶も同じ生活文化の一つとして残って来たに違いない。釜炒り茶は宮崎県が6割ほどを生産する。ただ、釜炒り茶の全国生産量は年間235tしかない。今や緑茶市場では0.3%程度の希少茶である。

地元では子供の頃から釜炒り茶を飲んできた為その味が当たり前になっている。青年になり都会に出て行って暮らすうちに茶への関心も故郷に対すると同様に薄れていく。そこでは煎茶(蒸し茶)が席巻している上に都会の生活様式が茶の占める位置をなくしていく。

ここでは釜炒り茶は今も主流で昔は味噌や醤油と同じ様にどの家でも自家用に作っていた。ただこの製法も次世代に繋がるか保証の限りではない。蒸し茶と違い製茶に生産者の感覚に負う部分が多く職人技を必要とする事や水分量の多い時期の新芽(一番茶)しか使わない為、生産効率が悪く大量生産に向かない。蒸し茶は二番茶、三番茶も使え、これが大手企業の大規模経営を可能にしている。

 静かな山間にある工場の一室で恬淡としてその口から紡ぎ出してくる代表の”茶話”に引き込まれた。世にも稀な釜炒り茶で一旗揚げてやろうというのではない。子供の頃から親しんできたその茶の生産が風前の灯にある。その味をいつまでも堪能したい。なら自分で作ればいい、多分、そういう単純な動機なのである。顔に書いている。どうみてもビジネスマンの顔ではない。

江戸期には上方でも評判を取った「佐伯半紙」、「佐伯白炭」の技術伝承は既にこの地に途絶えた。同じこの土地に始まった椎茸の人工栽培(江戸初期の源兵衛翁による開発)とこの地に継承されて来た製茶(独特の釜炒り技術)がこれに続こうとしている。かつて浦方の漁業と共に藩政を支えた在方の生活産業の余命いくばくも無い。椎茸も茶も本当に美味い。この地ならではの地勢が産み出した逸品である。

「青殺」はご免である。これらの生産技術は「青殺」するのではなく更に発酵させていきたいものである。真摯に話し込む代表の顔が何だか発酵途上にあるように見えて来た。

https://bungologist.hatenablog.com/entry/2023/05/23/165638

<別府駅前合戦> 2023.04.26

 隣り合っているにも関わらず、大分市と別府市では雰囲気が全く違う。駅前の光景にそれが象徴的に現れている。整然と雑然。

 市の依って立つ工業と観光という生業の違い、大企業と自営業という主体の違いが都市空間に現れている。ただ、両市がその独自性を保っているのは実は間に聳え立つ高崎山に要因があると踏んでいる。

 何しろ見事な山体である。別府湾上から眺めると一目瞭然である。左手の大分市には海岸線上に工業団地の煙突が林立し人工物が圧倒する。右手の別府市には鶴見岳から滑り落ちるようななだらかで広大な傾斜地に街が貼り付いていて自然が圧倒する。高崎山が空間を見事に切り分けている。この山がなかったとすればさぞかし締まりのないダラダラと伸び切った都市景観になっていた事だろう。

 海面からいきなり聳り立つこの山に阻まれて、古来、親不知子不知新潟県のように懸崖の海岸線は街道にはなれなかった。波を避けながら這い渡るしかない。よって旧日向街道は高崎山の裏側の銭瓶峠を通る。必然、この山に城が築かれない訳がない。攻めたくない山城として全国三位に挙げられるほどの難攻不落の高崎山城である。今は猿が立て籠もる。

 その海側の山裾の狭隘地に安倍貞任・宗任の子孫が住み着いたと伝わる白木地区がある。安部姓が多い。大分県の安部姓発祥地とも言われる。落魄者が隠棲するに最適の地形である。そこに貞任・宗任を祀る龍雲寺と鬼神社が互いに寄り添って、辺りは時間の止まったような静寂に満ち、鄙なる路傍に老婆が草むしりをしていた。高崎山城も宗任が築城したとの伝承もある。

 大友宗麟の嫡男義統はこの山を背にして目の前の別府・石垣原で黒田如水軍と対峙した。かつて薩摩征伐に乗り出した秀吉軍は戸次川で薩摩に惨敗、義統は高崎山城に退散し、更に石垣原を抜けて宇佐の竜王城まで逃げ落ちた。ここを死地に選んだ豊後の勇将吉弘統幸の奮戦も虚しく、多勢に無勢、大友軍は豊後での「最後の関ヶ原戦」に完敗した。

 その別府に「大入島柴田姓ルーツ」の縁者を訪ねた。別府気質そのままのご婦人との事であったが初めてお会いする。そも別府人と相対した事がない。そも別府人の気質を想像したこともない。心を整えるべく石垣原合戦跡に寄り道する事にした。思いつきの行動はいつも失敗する。案の定、道に迷った。次回、出直す事としてご婦人を訪ねた。因みにこの合戦に柴田氏がいた。柴田治右衛門は戦死とあるが海部郡本匠村三股に帰農した別の柴田氏がいた。「もう一つの柴田姓ルーツ」であるが大入島ルーツほどの確証が地元に乏しい。

 ご自宅はカフェ兼書道家の娘さんのギャラリーを兼ねていて何とも異空間だった。一人座っておられ徐に振り向くと、「お前は一体何者だ」といった風の視線が飛んで来た。次いで「読書会の準備」で忙しくしているとジャブがくる。うっかり「私も本を出している」と言ったのが浅はかだった。新聞に投稿し掲載され続けてきたハガキ随筆がまとまったので、「三冊目の本を出す」と強力なパンチが返ってきた。こうして別府駅前の合戦は劣勢に終始した。

 こういうご婦人は嫌いではない。一時間半ほど話し込んだ。お陰で合戦には負けたが一つ褒美を得た。書家の娘さんに好きな題字を書いてもらえる権利である。母親の絶対権の行使である。三冊目が出る頃の再訪を約し嬉々として退陣した。

 はて、訪問目的だった柴田姓ルーツについて一体何を話したろう。今だに思い出せない。

<海の道> 2023.04.24

蒲江地区は海の交流の痕跡が随所に残る歴史の古い土地である。地元に住む同級生が案内してくれた。見るもの以上に彼の話が一番為になった。今に生きている歴史が迫ってきた。

以前、蒲江八景について触れた。城下からはるばる轟峠を越えて文人達がこの地を訪れ、滞在中に八景を探しそれぞれを詠んだ。文化を愛する土壌と彼らを招待する資力があったことで実現した。いずれも目の前の海がもたらした。

黒潮に乗って様々な回遊魚が蒲江の浦々に入ってくる。鰯を追ってマグロなどの大型の魚も入ってくる。好漁場である。魚だけではない。風待ちや潮待ち、荒天時の避難など船の出入りは頻繁であったろう。中世には豊後の中心都市府内(現大分市)を上回る人口を有していたと言われる。目の前の海が経済の大動脈であった証明である。

その中心が蒲江浦、厳密には東光寺や王子神社下の小袋の小さな入江である。その最奥部にある地区を熊野という。紀伊熊野から人々が住み着いた事に由来する。9世紀初めと随分と古い時代のことである。今でもそこでは言葉が違うという。蒲江では文化や習俗が小さな入江単位で相違していても不思議ではない。海面から屹立する屏風のような高山とリアス式海岸が周囲との交流を困難にして来た為である。

唯一、海が外に向かって開けていた。古くより瀬戸内各地と海を通じて交流が盛んであった。言葉や習俗に残る。海産物を満載して上方に上った船は各地の物産を満載して帰ってきた。海は文化の道でもあった。

東光寺薬師堂に祀られている古仏は鶴見地区の吉祥寺の古仏と似通った伝承を持つ。いずれも海中に発見された。海に生きる土地に象徴的な伝承である。蒲江浦の北の入津湾の早水日女神社の御神体もタコに抱かれて海中から上がって来た。拾いあげた人の末裔は今でもタコを食さない。鶴崎の水日女神社にも同じ習慣がある。いずれにも神武東征譚が残る。

「海の資料館」は必見である。そういうこの地の歴史の核心がズシリと重く伝わってくる。和船の櫓と櫂の構造の違いを知らなかった。尋(ひろ)と言われても分からない。船や網をつなぐ綱の原料には棕櫚や松の表皮を利用していた事も初めて知った。様々な漁法は言うに及ばない。

「佐伯の殿様浦で持つ」、それを可能ならしめた知恵や漁具類がここに集約されている。国の重要有形民俗文化財になって当然である。それはこの案内役の同級生の何十年の地道な努力の賜物だとここに来て知った。失態である。

船の魂である「船玉様」も初めて目にしこれほどの感動はない。何だか彼の民俗伝承への思いもそこに宿っているような気がした。

「道の駅かまえ」でおすすめの擦り身と干物を求め、「暮雪の轟山」を越えて家路についた。

<佐伯人の尊い心性> 2023.02.13

 我が仲間による佐伯地方の稜線踏破の完遂が目前に迫ってきた。佐伯市の境界線は稜線が連なって出来ている。この地方の地勢的特徴でもある。山稜の標高は平均して500mには及ばないだろう。稜線のほとんどに道がなく、しかもその多くが低山であるが故に樹林と藪が密集し進むに難渋することは必須である。だからその植生が増殖する夏場に挑むことは諦めざるを得ない。踏破行は限られた休日を利用する。だから3年目に突入したのである。完遂すれば踏破距離は150Kmに達することになる。率直にその偉業をたたえざるを得ない。(URL:YAMAP「多分、風」)

当人にはそんな意識は毛頭ない。淡々としていて自ら設定した目標を達成したいだけのことである。大したことをやっている意識は皆無である。そこが好ましい。

かつてこの地を訪れた伊能忠敬並みという気はないが、自ら歩いて佐伯地方の地図を描いているのである。これだけの時間があれば各地の名峰を旅してもいいのである。そうせず佐伯地方の山々に執着している。そこがいい。それはもう「故郷への愛の表現」といっていい。

稜線上には数々のこの地方の歴史(合戦)や民俗(峠越)も刻まれている。その痕跡も残っている。これらは今、全くといっていいほど振り返られることはない。彼が道を刻む毎に知らずそれを掘り起こしてくれているのである。

このまま誰知らずこの踏破行を終了させていいものだろうか。せめてその行為を佐伯市として公式の記録にとどめてやるべきではなかろうか。メディアの取材ネタとしても一級のものだと思うのである。「自然賛歌」というものである。(URL:YAMAP「多分、風」)

実はもう一人、先輩仲間がいる。彼はまさに廃れ消え行く佐伯地方の歴史民俗(峠越)の痕跡を記録すべく稜線に分け入っている。今やそれは貴重な歴史記録になりつつある。彼の行為も同じである。この地に刻まれた歴史民俗をただ愛しく思う気持ちによっている。この地に育ててもらったことへの「感謝」ということでもあろう。(URL:Ameba「宇目郷温故知新録」)

こういう地元の人々の地元に腰を据えた無垢の行為を拾い上げ共有することが、広く佐伯地方の自然や歴史を心から愛する意識の向上に繋がると思うのである。無垢の行為ほど共感を呼ぶものはない。行政はもっとそういう表に見えてこない人々の生き様を拾い上げることにも力を注いでいいのである。それは佐伯地方(佐伯人)に連綿と伝承されてきた「尊い心性」でもあろう。その余光を消してはならない。

<大阿闍梨> 2023.01.14

  そろそろ、その活動を紹介してもいいだろう。Saiki Roman Trail(SRT)を実践している彼のことである。彼の活動を知ったのは当会が「天空路プロジェクト」を企図した時である。資料で佐伯地方の稜線調査をしていると何だか同じ考えを既に実践している人物に行き当たった。それが彼だったという訳である。稜線踏破(佐伯地方周回距離:約150km)といっても道がある訳ではない。GPSを頼りに自力で山中に分け入っていくまさにadventureである。プロアドベンチャーレーサーの田中陽希はグレートトラバースで有名であるが、それでもちゃんとした登山道を通っているのである。その違いを理解しておかねばならない。その後、彼には当会の応援団になってもらい種々アドバイスをしてもらっている。

その彼が新年早々最後の難路に挑戦した。2020年5月に蒲戸崎から始まったその踏破行は、昨年、佐伯五山の一つ桑原山に至っている。踏破行といっても季節を選ばなければならない。佐伯地方の周回稜線は平均して標高は600mもない。日本アルプスのような数千メートル級の山岳ではない。だから夏場はとても歩ける状態にはない。秋口から春先までがシーズンということになる。時間を要するのである。いわば”千日回峰行(比叡山)”をやっているようなものである。

4年目の今年になっていよいよ北川渓谷から最後の難路の梓嶺越えの直登に臨んだ。筆者も誘われたが流石に体力に自信がなく辞退させて頂いたが、危うく彼の踏破行の足手まといになるところであった。それほどの難路であったようだ。このルートを名付けてSRT-Season 8という。8回目の試みということである。

目標到達点となる蒲江波当津まではあと数回の挑戦で到達するものと思われる。出来ればそこで彼を出迎えてやりたい思いを抑えきれない。これは前代未聞の偉業ではなかろうかと思うのである。なによりふるさとの山々を選んだことがいい。佐伯地方の地勢の成り立ちの理解なくして出来ることではない。佐伯市としても顕彰すべき偉業と思うのである。これこそ広く世間にPRしてもいいのではなかろうかとさえ思うのである。

佐伯地方に間もなく”大阿闍梨”の出現である。

登山記録サイト: https://yamap.com/users/379102

<南海部でゴルフ考> 2022.12.23

こんなに素晴らしい自然に恵まれていてゴルフどころの話では無い。

嫌いではないがのめり込むほどでもない。下手ではないが格段上手いというほどのものでもない。運動能力にはそこそこ自信があるが、ゴルフは運動と言い切ってしまえないところがある。どうやらゴルフ脳に欠点があるらしい事は薄々気付いている。

誰しも同じかもしれぬが調子のいい時はプロ並みのショットが出る。弾道や飛距離も申し分ない。それでも性格が向いていないと内心気付いている。プレーに人の良さが出る。自分の為のゴルフに徹しきれない。まあいいや、と執着心が無い。

若い時分、サウジアラビアに駐在していた頃、一度だけ金を出して人に教えを乞うた。出稼ぎのフィリピン人だったが教え方が上手く直ぐに上達した。以来、教えを守っているはずだが伸び悩みの状態が既に四半世紀を超えた。

これでも世界各地を転戦したのだ。かのセントアンドリュースやウェントワースでもプレーした。要はゴルフ脳に問題があるのだ。練習では獲得出来ない部類のものだと思い込んでしまったから成長が止まった。

ベスグロは42、44の86だったろうか時期や場所さえも覚えていない。なのに中々100を切れない。だから随分前にあっさりと縁を切った。


「一人空きが出たので代わりに付き合え」と連絡があった。伏線はあった。宮崎での女子プロ最終戦を観戦してしまったのだ。もっともこういう時に断り切れない性格でもある。実家での単身生活、暇を持て余している。嬉々として出かけてしまった。かくも信念がない。

 豊後大野の三重カントリークラブのティーグラウンドに立っていた。少なくとも五年間はクラブを握っていない。案の定100は切れなかったが体は覚えていた。ただ、同伴の女性陣にも後塵を拝した。それでもこういう時に悔しさが湧いてこないところが致命的なのだ。

ゴルフ場から本匠の北尾根の稜線が綺麗に見えた。明日はあの稜線に登る。途中から既に気持ちが切り替わっていた。諦めが早い。要は淡白という事である。

 風が強くちらほら雪も降る大寒波で凍えんばかりの一日であったが、「またやってもいいかな」、と山に帰る車中に懲りない自分がいた。

翌日、椿山の頂上から意地悪だった三重カントリークラブを見下してやった。流石にその方向にションベンを放つのは思いとどまった。

佐伯地方には土地の制約もありゴルフ場が無いのは幸いである。トレッキングに専念出来る。こっちの方が人間性回復にはもってこいだ。そういう恵まれた類稀なる山野河海の自然がある。この地にゴルフ客など不似合いなのだ。

なあに四十分も車を走らせればゴルフは出来るのだし

<目から鱗> 2022.12.11

「将来、何処に住みたいか。」、佐伯地方の山間部より更に僻地性が高いかもしれない群馬県上野村(人口1,086人、面積182平方キロ、町村合併を頑なに拒否した村だそうである)の生徒達に質問した。生徒の100%が地元に住みたいという回答に質問側の行政当局も驚いたそうである。

通常、都会生活を夢見て不便な田舎を捨てて出て行く選択が当然と考える。だが、親達がここは本当にいいところだと語り聞かせ、側に幸せに生きている姿を見ていると冒頭の結果になる。実際、大きくなっても半分は地元に残っている。子供達は田舎が嫌で出て行くのではなく働きたいから出て行く。

要領を得ない質問に講師の先生は最後にそういうエピソードで締めくくってくれた。里と街、地方と都市の関係性について疑問を呈した時である。田舎に育った人間に限らず都会で育った人間でも一皮剥けば容易に自然に回帰出来る。地方が懸念するような事ではない、と一蹴されてしまった。

日本の社会は関係性である。自然と生者(今を生きている人)と死者(祖先)と神仏(暮らしの中に埋め込まれた人々の思い)との関係性で出来ている。それぞれが社会の構成メンバーである。だから事を起こす時には「自然の許可」を得るべきである。祖先の思いを知るべきである。欧米は人そのものが社会である。だから自然との共生よりは寧ろ人との競争が生じる社会である。

壁に突き当たった日本の現代社会にあって「民衆史」が注目を浴びるようになったのは過去に未来へのヒントがあると理解し始めたからである(具体例は省略)。日本には途切れる事なく持続して来た過去がある。そこから未来へのヒントを拾い出す事が大切だ。だから過去を持たない米国が世界を牛耳っている不遜を指摘する。

日本人はあらゆる面で自らが究める事を大切にして来た。江戸期は世界でも欧米に比肩する経済規模(緩やかな経済成長の存在)に達した。自らが究める事が社会通念としての労働感であり、それが結果的に経済成長を促した。決して経済を拡大しようと考えた藩政があった訳ではない。競争社会があった訳ではない。そこが欧米の目標設定社会と違う点である。SDGsやGDPという概念はそういう欧米の社会背景から生まれた。日本社会が究めてきた価値とは別物である。それを安易に許容する風潮を危惧する。

粗っぽく纏めるとそういう講義であった。要は自然と過去からの生活文化を大切にする地域を作る事が地域の未来に繋がるという結論である。当会が目指すべき方向性を後押ししてくれる考え方と勝手に解釈した。

「南海部に天空路を拓く会」よりは寧ろ、「南海部に民衆路を拓く会」とする方がより趣旨に沿っているのではないかと言われたような気がした。眠気も襲ってくる事なく、腑に落ちた講義であった。                                                   

佐伯市民講座(令和四教堂)第12回講座「未来社会のデザインを語ろう」、

哲学者内山節氏 

<おばちゃんの列車> 2022.11.08

 「友は静かに暮らしている」、とそのおばちゃんは早朝の無人駅のホームで告げてくれた。この正月に半世紀ぶりに奇跡的に再会していた旧友のその後についてである。おばちゃんの電車が来るまで暫し話をした。おばちゃんとはこの日初めて会った。

 街への通勤の為に四両編成の特急が今はおばちゃんの為にこの駅に停車してくれる。佐伯まで280円で行ける。特急なら二千円は下らないのだとおばちゃんは言う。延岡から佐伯まで特急はおばちゃんの為に普通列車になるのである。おばちゃんを街で下ろすとこの電車はそこから特急になる。おばちゃんは帰りは二両編成の普通電車に乗る。電車はおばちゃんだけの専用車両になる。おばちゃんの為にいつまでこの区間を電車が走ってくれるのか見通しは明るくない。未だ霧が晴れない静かな朝、おばちゃんの乗った列車を見送った。この時間にここに来ればまたおばちゃんに会える。

 ここまで5km弱をwalkingして来た出会いである。ロングトレイルでは一般的に一日平均20kmを歩く。もっと多くのおばちゃんが待っていることになる。佐伯地方の山に海に里にそういう歩く道をつくりたい思いがこの朝は一層強くなった。        

  今朝、里山はすこぶる冷え込んだ。濃霧が発生しておばちゃんの駅まで幻想的な光景が続いた。帰りにもいい光景に出会った。なんと”乙女らが風にペダルを踏んで”通り過ぎて行ったのだ。野生動物に出会うより珍しい。思わず写真を撮ろうかと思ったが変なオジサンの噂が広まるのは里山では特急並みの速さである。代わりに心の中で頑張れよとエールを送ってやった。 

<里山の文化祭> 2022.11.06

 「終わったーっ」、観客席の後ろで黄色い快哉の声が上がった。地元の芸術文化祭はまさに小中学生が主役だった。準備が大変だったに違いない。小中学校を合わせても全生徒数は40人程度ではないだろうか。人数が少ないだけに手も抜けまい。それ故かまとまりの良い子らだった。地域に大切に育てられている子らだとも思った。まさに僻地の最大の宝物だ。午後からは地元民による舞踊とカラオケの披露で懐かしい昭和の世界が広がった。

 先生達の指導の賜物ではあるにせよ、生徒らの舞台は本匠の良さを知らしめたいとの思いに溢れていた。そのメッセージは英語に乗せて地域や日本を超えて世界にも発信している。その意気やよし。君らは既に国際人だ。

 この地区は佐伯地方でも最も人口が少なく千人を切る日もそう遠くはない(現在1,218人)。しかも高齢者比率は6割(698人)である。山間にある地区面積は広大(123㎢)で人口密度は10人/㎢を切る。故郷が置かれた危機的状況は子供達も感じているのである。そういう思いにさせている現実がいつも彼らの側にある。だからその舞台は見る者の胸を締め付けるものでもあった。君らが愛しくてならなくなってしまった。

 小学校歌「水の大地」(2006年)は伊勢正三の作詞作曲である。子らが置かれた現実を思うとこの校歌は今は何とも切ない。子らにその作詞の思いを問われて伊勢は「ここが一番地球らしい」と答えたそうである。その子らが合唱する。涙をこらえきれるはずがないであろう。

 我が展示パネルは最後までこの場に独特の違和感を放っていたが、きっと彼らが拾い上げてくれるに違いない。

 我々が目指すものは「(君らが)故郷愛を更に深く育み、遠い未来にその故郷愛が確信に満ちたものであることに気づくよう、今、その機会を提供すること」である。伊勢正三も表現は違うが同じような思いを詞にしているように思うのである。「(僕らが)出会ったこの場所で未来の自分といつかは語り合えるんだ」。

<不審者> 2022.11.05

 久し振りに文字を書き、そして幾度も書き損じた。母の代わりに通帳への記帳、振り込み、預金引き出しをやった際の出来事である。ATMを利用すればいいではないかと言われそうだが母は通帳カードを持っていない。いちいち用紙に必要事項を書かねばならない。

 ところで地方では郵便局と農協が主要な金融サービス機関で都市銀行なんてものは無い。地域性が更に濃くなると地銀さえも肩身が狭い。郵便局と農協が圧倒的な存在感なのである。しかも地元に密着しているからいずれの窓口でも客と係は概ね顔見知りである。その意味では私は一旦は不審者の範疇に入る。誰だこいつは、という一瞥を覚悟せねばならないのだ。

 加え、普段から金融機関の窓口を利用する事は皆無である。専らそれは我が家の財務大臣の役割である。だから窓口にからっきし弱い。ATMさえ預金を引き出す以外に操作した事がない。様々なハンディを背負いながら地元の郵便局と農協の窓口にいざ出陣したのである。

 里山の郵便局は職員二人、記帳だけだから幸いにも小競り合いも無く済んだ。里山を出たところにある農協では職員の視線が一斉にこちらを向いた、ような気がした。ここでは間違いなく不審者の範疇に入った事を確信、一戦もやむなし。

 あたふたと用紙に必要事項を記載し、いざ窓口へ。「フリガナを書いてませんよ」と虚をつかれカタカナ表記を一字だけ書き損じてしまった。ペンで斜線を入れて訂正するも「用紙の書き直しですね」。

 新しい用紙を渡されてその場で書き直す。窓口掛がグッと乗り出してくる。また間違わぬかとの思いであろう、「有限会社は(ユ)でいいですよ」と口を挟む。不意打ちに思わず書き損じるところだった。動揺した訳ではないが、今度は口座番号欄に金額を書いてしまった。顔を上げると、「線で訂正しても構いませんよ」とここは続行を許される。なんでだ。

 「預金を引き出したいのだが」、いよいよ不審者の最大の関門である身元確認があるに違いない。「この同じ用紙で同時に出来ます」、一戦に及ばず。拍子抜けである。引き出し額を書く。あっ、一桁間違えた。見上げると、「用紙の書き直しです」と即座に返って来た。なんでここは線で訂正出来ない。

 ええいっ、書き直すのも癪だ。間違った数字で押し通してしまった。ATMがいい。対面は何事も苦手だ。

<里山と農具> 2022.11.01

 農具と農機具、厳密には同じ分類ではないが前者の方が妙に落ち着く。昔の記憶が抜けない。農地と農作業には農具なのである。

 刈払機(草刈機)を農機具の範疇とするならば初めて農機具を使う事になる。昨日、その農機具を購入した。農具なら”草刈り鎌”のことである。父が使用していた3本(目的により使い分けるらしい)あった刈払機はいずれも長らく使用しておらず使い物にならなくなっていた。

 販売店で実物を一見しこれは凶器だと思った。チェーンソーも購入する予定だったが叔父に素人には危険だからやめておけと言われ断念した。刈払機で凶器と思うのだからそれ以上に危険な代物だとは分かる。こちらは錆びついたノコギリで済ます事にした。

 そもそも農機具に危険を覚えることの居心地の悪さである。昔は農地と農作業と農具は一体性があって操作に困る事も無かった。農具が電動になって以来、農地と農作業が対立関係になってしまったような感覚なのだ。人が農地を這い回る事がなくなったせいかもしれない。そもそも昔は我が家には農機具という言葉は無かった。農具は脱穀機、唐箕、千歯こき、といった手動だった。農機具は学ばないと使えない。理解しないと触れない。"3軸合成値"とは一体どういう意味なんだ。

 何だか農機具の登場で道具が農業との親和性を失くしたような気がする。農地に油をエネルギーとする農機具が入ることの違和感とでも言おうか。

 先般、林業の機械化を聞いた。就業人口の減少は機械化を促進する。機械化しても採算が取れない。林業も農業も補助金無しには立ち行かない現実がある。それでも益々機械化を避け難い。仕様書を読み、教えを請い、おそるおそる踏み出すしか術がない。農地に優しく迎えてもらえる昔日のあの心地よさはない。農地と戦う気分に仕向けられているようでやはり違和感を拭えない。

 朝から買ったばかりの刈払機に触る事に逡巡している。なあに、慣れればどうという事はない。それでも機械を使うほどの事でもなかろうと、農具(草刈り鎌)を手にしている始末である。あの爆音に恐れをなしてしまったのが本音である。

<若木> 2022.10.29

 「林業は楽しいです。」

 青年は帰り際にそう言った。心からそう言っているように思えて何だか嬉しかった。

 薩摩の佐伯領内への侵入を食い止めた囲ケ岳砦を左手に番匠川を登って行くと因尾の盆地に入る。その一角に佐伯市広域森林組合の本匠支所がある。里山のトンネルを抜けると街とは4の気温差があるが、この地はそこより更に4の気温差がある(母曰く)。この寒暖差が良質の因尾茶を産む。

 林業は伐採、造林、間伐を50年単位で循環させる営みである。この長大な時間に行程毎に作業能力をバランス良く配置する事は大変な事であろう。最大の問題は折衝相手(山林売主)である地権者が複雑に入り組んでいる上に、不明、あるいは不在が多く、山林集約や契約の障壁になっている。組合にはそれぞれ管理、現業、製材部門があるが、だから管理部門の力量がものを言う。青年はこれを一手に担っている。

 就業人口の減少で今や林業は機械化が著しい。その事が山を崩す原因にもなっているらしい。重機を入れる為には林道から更に作業道を作らないといけない。伐採は作業道の確保次第でこれは地権者と組合の負担である。作業道や林道は伐採が済んだ後は殆ど放置状態になる。これが風雨に晒されて山を崩す。

 林業は季節労働である。秋冬が繁忙期で春夏は閑散期と就業が不安定な難しい業種である。今は伐採に比較し製材能力が足りない。製材能力に合わせて伐採するから全体の効率が落ちる。原木は在庫が難しいのである。また、伐採と造林の人数比率は1:2であるが伐採期を迎えて伐採が追いつかない。中々難しい問題を抱えている。

 その伐採分野には建設業者が進出しているそうである。公共事業の減少は建設業者を林業にシフトさせた。その道作りのノウハウが大いに役立つ。重機も保有しているから参入障壁は低いのである。

 人手不足や採算割れは造林密度を減らし間伐材を切り捨てにする方法を選択させた。10年材までは間伐するがそれ以降は間伐せず自然に委ねる。間伐材は切り捨てして搬出しない。

 日本では林業は宮崎県と佐伯地方が聖地のようになりつつあるそうである。森林へのアクセスが出来ないと林業は廃れる。ノウハウも廃れる。今は全国的にそういう状態にあるらしい。

 当会の活動と組合の活動は親和性があるように思われてきた。山の環境保全(循環林業)こそが林業成立の根幹にあると理解出来たからである。組合はそこに焦点を当てている。

 「10年物の若木を眺めている時が一番幸せです。」青年の言葉は心に沁みた。いい山の日であった。

<乙女らの里> 2022.10.27

    乙女ら風にペダル踏む。

 私の古い記憶に残る女生徒達が通学する風景である。実は若かりし頃の好きだった情景の一つなのである。

 ところで里山では早朝walkingしていて出会うのは人間より動物の方が多い。先日は目の前を鹿が横切り、今日は猪が山に駆け上って行った。ある時は鷺が道を占拠していた。空には大抵トンビが舞っている。人間、出て来い。

 数日前、山里のトンネルを出た付近で街に向かって自転車通学している女生徒に出会った。今日はある山際の集落から降りてきて疾駆していく女生徒の後ろ姿を見た。多分、同じ子に違いない。いずれも時間帯が符合するし、こんな山里から十数Km先の街まで自転車通学する生徒はそうはいないだろう。何だか応援したい気分になろうというものだ。

  この標高差を街まで自転車通学するのは大変である。下りはいいが帰宅時の登りはきつい。自分も経験した。だから途中からバス通に変えた。今は更に大変である。通学に使える時間帯に山里に最早バスは走っていない。山里に住む生徒は自転車か両親の車送迎か街に下宿するしかない。

 何かと不便な山里から街の近くに引っ越しする家庭も多い。山里の顕著な人口減の背景の一つである。子女の教育環境の確保故からのものもあるに違いない。

 だから応援したい気分になる。乙女らに風にペダルを踏んで欲しいのである。未来に向けて若やいだ息吹がそこに溢れている。山里にそういう風景が戻って来る事を夢見てしまうのである。

 今は、残念ながら”乙女ら”ではない。単数形で、乙女が風にペダル踏む、のである。それではあの情景は蘇らない。あの未来への光景が見えて来ない。それでも君は未来にペダルを踏み続けて欲しい。

 もっともペダルの主役が男子生徒では、たとえ複数形であってもこの情景は蘇らない。ただ熱苦しいだけなのである。

<好きこそものの上手なれ> 2022.10.18

 実家での単身赴任生活が始まった。老母を頼めない。何しろその世話をする為に帰省したのだ。だから”主夫”をしなくてはならない。最も対局にある生活行動であり、人生の経験則がほぼ機能しない。前回もそうだったが既に忘却の彼方、本気度が欠落していたからだ。

 食事、冷凍食品か惣菜調達で間に合わせろ、包丁とクックパッドは最後の手段だ。だから未だ料理は存在しない。洗濯、洗剤の組み合わせが分からん、量はどうすればいいんだ、それに洗濯機の操作表示の多さは何とした事だ。掃除、いずれトイレが面倒になる事は使っていて分かる。ゴミ出し、仕分け方法がさっぱり分からん。日用品買い出し、なんで何もかもがこんなに種類が多い。服装、今日の気温はどうだ、何を着たらいい。今更ながら主婦の生活ノウハウの多さに感服せざるを得ない。

 「フンドーキンの合わせ味噌を買うて来ちょくれ」その程度なら、と思っていたら赤と白がある。どっちを使っていたろう、舌に記憶がない。コンディショナーとトリートメントはどう違うのだ。その販売棚は上下左右、圧倒される種類の製品で埋め尽くされている。選べない。キャベツ、丸ごとか半切りか色合いか表面傷の度合いか。選べない。いちいち考え込んでしまう。思い切れないのだ。そうではない。必要な情報があまりに不足しているからだ。

 一番大事な事だったな、と腑に落ちた事がある。「今晩、何が食べたい?」、妻はきまって毎日問うてきた。「今晩、何を食うかのう?」老母に問うている自分がいるのだ。

 さて、これが天空路に登るとなると違うのである。ほぼ同じ準備と手順が要求されるが、こっちは全てがスムーズに進む。完璧ではないか。つまり好きな事をやるとなると食料品や服装選びから準備万端、人間は正しい選択が出来る能力があるという事なのだ。「好きこそ物の上手なれ」、合点だ。

 さて、これまでの己の人生はどうであったろうか。

<栂牟礼城址> 2022.10.10

 「類は友を呼ぶ」、という成句がある。一昨日、存じぬ御仁から電話を頂戴し、昨日、お会いし、今日は一緒に栂牟礼城址に登っていた。同じ穴のムジナであったのである。

 変な奴が変な事を画策している、という噂を聞いてコンタクトしたとの事であった。出所はその変な奴が押し掛けて面識を得ていた佐伯史談会幹部の方々であった。この御仁も史談会員でしかも高校の先輩であったがお会いするのは初めてである。

 小田山城址側から林道を辿って尾根道に入り往復10km弱、三時間程の山歩きであった。以前登った古市側の急峻なルートとは相違し、小田城址から栂牟礼城址まではほぼ馬の背状の尾根道で、この変な奴の息が上がらなかったのがムジナ氏には災いした。悪い癖が出て変な奴は道々喋り続けた。

 このルートは実に魅力的であった。見事な深い堀切や縦堀りが連続して行手を遮った。臼杵長景の手勢は例えここまで攻め登って来てもこの尾根で立ち往生せざるを得まい。

 馬の背を渡り終えると遥か頭上に二の丸の縁が林間を通して見えて来た。喋りはここまでで黙して集中しないと足元が危ない。やがて二の丸に達すると本丸は直ぐである。本丸は高々230mの山上にある。だがそこに至る各曲輪は鋭利な石斧の刃の上に直線上に乗っているような実に印象深い城郭(山城)遺構である。石斧の刃のような稜線の両脇は深く落ち込んでいて、この遺構を覆う木々を伐採したならば恐怖を覚えるスリル満点の登攀ルートにもなるだろう。

 気付けば復路も駐車場まで延々と喋り続けていた。お陰で興味深い歴史話も多く聞かせてもらった。ムジナ氏が言う。全く同じような変な奴がいるので紹介すると。その場で明日の変な奴同志の面談が確定した。これは見ものだな、とムジナ氏がほくそ笑んだ。喋り過ぎはよくない。

<自然の再生力> 2022.10.05

 そんなに気にする事はない。確かに髪は恐る恐る生えている程度のもの哀しい有様であるがこっちは最早ちっとも気にしていない。さっさと作業にかかれ。(そう思っただけであるが)昨日の床屋での話である。

 床屋、散髪屋、理容室、美容室、ヘアーサロン、と様々に呼び方はあるが、これまで理容室以下には通った事がない。女性向けである、高額である、色々と髪型に呼び方があって自分にはさっぱり分からない、といった先入観による。床屋と散髪屋の呼び名が相応しい店を選ぶ習性が抜けない。しかもいつからか選択はカット専門である。規制緩和のおかげである。10分、980円、一丁上がり。

  昔は頭の地肌に汗がツーッと流れる感覚は皆無だった。頭頂に風邪を直接感じる感覚は皆無だった。髪の密度、保水力の問題である。羨ましいほどの保水力にも関わらず白髪染めしている友達連中もいる。黒黒と確かに一見若々しい。側に顔を寄せて見ない限りの話だ。 

 ふと山の植生を思った。山林はどのように変化するか。植生遷移という言葉がある。植物がそこの土地で生育する中で時の経過に従って段々と植生が変化していく事を言う。人が自然林に手を加える。伐採や焼き畑に利用する。すると草地化する。そのまま放置しておくとまず一番に松が生えてくる。やがて元の自然林に戻っていく。植生が自力で変化していく。

 松のような植物を陽樹という。陽樹とは生育に多くの光を必要とする(光合成)樹木で森林の中では生育し難い。だから松は真っ先に光に溢れる草地に進出する。松はやがて淘汰されるから他の樹木が生えていない崖とか海岸とか生育環境の厳しいところに進出する。地味より光が溢れている場所を優先するのである。

 母の時代には里では牛馬を養う為に秣(まぐさ)を作る野山(草場)を必要とした。森林を草地にして作る。母は昔は秣を刈るために山向こうまでリヤカーを引いて出かけていたらしい。山と野山は厳密には違うのである。これを放置しておくと松が進出してきてやがて元の自然林に戻る。

 さて頭髪はそうはいかない。何しろ光合成をしない。地味がものを言う。だから淘汰一辺倒である。元の自然林には戻らないのである。せめて髪が松の性質を有していたならと馬鹿な事を。山の地肌の豊かさと自然の再生力に今更ながら感じ入ったという次第である。

 だから天空路如きで山は荒れないのである。やれやれ天空路に結びつけるのに一苦労である。

山の行方 2022.10.03

 故郷の山の行方が気になっている。母と電話口で話した。猫の額ほどの山の杉を売ることは決めたものの、その後をどうしようかと。森林組合に任せれば植樹して五年間は維持管理してくれる。結論はそのまま放置、自然に戻すがよかろう、とした。何しろ五年目以降の目処が立たない。深い山に分け入って自力で枝打ちやら間伐やらしないといけない。現金化出来るのは早くても30年、40年先の事だ。もうこちらは生きてやしない。

 せめて山の動物達の糧を生むようになればいい。この山だけでは無理だが、同じ境遇にある人達が同じように考えてこれを集積すれば、山の多様性を甦らせ保水力を高め河川の氾濫を抑制する事にもなろう。治水コストも随分節約出来る。自然林が増えれば豊かな植生も戻ってくるだろう。食物連鎖も正常になるだろう。景観も改善する。害獣も山に戻り害獣という不名誉な言葉も無くなるだろう。それでいい。

  <都会もん> 2022.09.30

  今朝、妻が大騒ぎして部屋に駆け込んできた。ベランダにカマキリがいる、と興奮状態なのである。いつぞやは、壁に蜘蛛が這っている、網戸にカメムシがいる、と同じ騒ぎである。大体、都会の女子供はよくこういう挙に出る。こちらももはや昔のようにそれを”可愛げだ”などとは感じない。夫は本心では都会でもこんなに自然に恵まれたところに住んで幸せだと思っている。それを敢えて妻には言わない。昆虫に大騒ぎする都会人種に対しては危険な言葉である。だからもう帰省した時にはパニックである。都会の住人をこの地への観光ターゲットにするには重々戦略を考えねばならない。

 そういえば昔、親父が大入島中学の校長をやっていてその日記にあった。修学旅行の逸話である。「昨年、土佐沖を回ったがみんな船酔いをした。一番ひどかったのは本校生(大入島中)であった。海の子の島の生徒のからっきし駄目なのにがっかりした。」とこれから出かける修学旅行生に体調を万全にと念押しする為に引用していた。相当昔の日記である。佐伯もよもやそんな自然と親しまない都会もんの地になっていないだろうか、と、ふと。