HIPOPO の時空探偵団<本匠の歴史と暮らし

[本匠の歴史と暮らし1]     2022.11.20

昭和30年(1955年)6月中野村と因尾村の両村は、町村合併促進法に基づいて合併、本匠村を名乗ることになった。新村名の選定には村民一般に公募し、その中から、番匠川の本流をともに汲み、歴史的にも古来因縁浅からぬ両村であったから、新村の誕生は、村民みんなの喜びであった。この促進法に基づく県の指導や、関連町村との交渉、さらに両村民の希望としては、上野、明治、切畑、中野、因尾の5か村合併を適当とした。

しかし、切畑村は、佐伯市との合併を強く主張し、交渉は難航し、結局、中野、因尾の両村のみが合併した。

同じ番匠川の上流地帯を占める、地域的あるいは歴史的な交流は、他のどの村と比べても比類ない密接さを持っていた。仏説にいう一河の流れを共に汲んだ、その因縁の深さは何千年の歴史が物語っていた。同年7月、選挙により、

初代村長に高橋弥十郎を、また16名の

議会議員を選出した。初代議会議長には、河原銀治郎が選任された。

その時、私は、まだ生後8ヶ月の乳飲み子だった。

[本匠の歴史と暮らし2]     2022.11.22

新発足の本匠村は、戸数903戸、人口4526人。日田郡津江三村、西国東郡大田村に次ぐ小規模村である。しかし、面積は123K㎡、郡内では宇目町に次ぐ広さで県内第10位であった。[本匠村建設5ヶ年計画書]を作り、村政の組織運営を合理的に行い、能率を高めて村民の 福祉を増進し、地方自治の実績をあげることとした。新村は広大な林野に恵まれているので、この山林資源を開発し、村道、林道の開設、改修を図り、林業、農業の振興をすすめ、大いに文化的、経済的に豊かな住み良い村の建設を目指すことであった。なお目前に急がねばならぬことが多かった。

箇条書きに並べてみよう。

*老朽校舎の東西両小学校、山部分校の改築

*消防団の統合と消防施設の充実

*国民健康保険事業の整備統合

*村営火葬場の建設

*村営住宅の建設

*全村電化、無燈火地区の解消

* 村道、林道の改修、開削

*県道の拡幅、全線の改修

*13地区の電話架設推進

高橋村政は全村民期待の内にスタートした。しかし、解決すべき課題は、山積していた。高橋弥十郎村長の舵取りやいかに。嵐の中の船出であった。

[本匠の歴史と暮らし3]        2022.11.24

嵐の中を本匠丸は出航したが、いくつかの問題があった。例えば、村財政の赤字による新規事業の停頓、村役場庁内人事(助役欠員のまま)の問題。農協、森林組合、共済組合等の足並みの調整。婦人会、青年団など社会教育団体の統合問題。これらは一朝一夕では処理出来ない。村議会も村当局も苦労は続いた。

幸い翌31年に、政府は[新市町村建設促進法][新農山漁村建設総合対策]を打ち出した。これを受けて大分県は独自の[郷土新建設運動]をもって指導に乗り出した。

それにより、高橋村長は、新たに本匠村の産業振興対策を樹立して、新村本匠は

初めて明るい路線を、ひた向きに進むことになった。村当局の努力も実り、昭和32年8月には、樫峯地区にも電燈がつき、はじめて、全村電化を完了した。ラジオ、テレビをはじめ、冷蔵庫や洗濯機も使え、いうなればもう僻地ではなくなった。昭和18年の大災害で破壊しつくされていた大刈野の道路も完全復興開通し、11月には、樫峯に通ずる万年橋も完成した。道路事情も次第に良くなり、もう[陸の孤島]は解消されたといえる。しかし、これらは序の口であった。本匠は北側に椿山-佩楯山の連峰と酒利岳、米花山の大山塊があり、その内部に多くの支峰とこれらを浸食流下する

番匠川本流の因尾川をはじめ、大小30近い河流があり、しかも渓谷至る所に絶壁がせまり、およそ交通事情最悪の恵まれない村であった。

神はこの村を見捨てたのか?

[本匠の歴史と暮らし4]         2022.11.28

我が村は、およそ交通事情最悪の恵まれない村だった。一例を挙げると[因尾道路]と呼ばれる柿木-佐伯線が、畑木から因尾に通ずる地方道として開通したのが、明治33年のことで、いかに交通事情に恵まれなかったかを物語っている。しかも、東端の風戸から西北端の樫峯までは、地図上直線距離でも20kmを超す程で、至るところで道路、橋梁についての苦労がつきまとった。

そのことは、古来、産業の開発、教育文化の振興などが遅れがちとなり、村民の時勢への立ち遅れ、村政に対する無理解などとなり、為政者の頭痛の種であった。その為には時局の認識や、村政万般にわたる村民の啓発が必要であった。そこに必然的に登場したのが、旧中野村では昭和初期より、既に村民に馴染まれていたが、広報紙[村報]である。[中野村報]は、昭和8年5月、徳丸村長時代に始まり、収入役の  矢野武吉氏(後に村長)が孤軍奮闘して、発行を続けたが、昭和10年の大選挙違反事件のさ中で頓挫し、廃刊となった。そこで、今度は、[本匠村報]として新村全戸973世帯にあまねく配布されたのである。これが、功を奏した。

上記の大選挙違反事件は、昭和10年5月に発覚し、中野村の男107名が逮捕され、全員に有罪判決が下された。全村民を震撼させた大事件であった。私は、この事件の詳細を、いずれ本にして出版したいと思っているが。


[本匠の歴史と暮らし5]     2022.12.01

[本匠村報]は、新村誕生の昭和30年6月に

創刊号を発行した。

第9号に、次のような投稿文が載っている。

    村報雑感          堂の間      匿名

[おいさん村報!]と大きな声で子供が配ってくる。その眼は光っている。息せき切って村中を駆け廻る。つねに、2、3人連れである。旧因尾村には悲しいかな、これまで村報がなかった。そこで、子供との問答が始まる。

[こりゃよいたち、どっかり来た広告か?]

[おいやん、がまんなの、またすらとぼくんなや。本匠村報だい。合併したぬう知らんのか。みんな方へ配ばんのだい。見よこくう、試験にとおったのい皆出ちょるわい。]

[学校かりか、ほんとや]

[いんね、馬鹿う言う奴ぢゃのう、知っちょるもんが]元気のいいのが、そいつの頭をこづいた。

[おいやんおいやん、こいつかたんお父うはのう、おりどうい配っちぇ行ったりのう、おう、どっかそき、おいちょけなんの言うきい、こいつかたんお母やんにやったりのう、姉やんが豊南(高校入試)にとおったのい出ちょるちゅうち、泣きでえちのう、仏さまんりんぬ、たてえち、おれどうにゃビガー(飴菓子)をやんのじゃが]

[ほいちえなあ、牛ん鼻ぐりゅう沖六天につりあげちょっち、ごそごそ配っちぇしまわんかなんの言うちょる。こいつん方んおとうい](中略)

書けば意の余るもの、むしろ多く語れば尽きざるが残り、人の心と心は容易には繋げないものだが、村報は、5千村民の

心の繋ぎであった。

こんな風に[本匠村報]は、全村政の実態を伝え、村の話題を村民の声として載せて、村民の啓発指導にあたった。

特に西地区の村民からは、大きく歓迎されたようであった。地方行政にこの様な村報による公聴・広報が新村全戸に伝えられることは、極めて効果を与えたものと思われる。

[本匠の歴史と暮らし6]     2022.12.04

高橋村長は、教育施設の整備にも

力を入れた。昭和32年7月本匠東幼稚園、西幼稚園が開園した。

33年8月本匠東小学校の鉄筋三階建校舎

が竣工した。

日本の幼稚園は、明治8年、京都に最初の幼稚園が開園している。

それから、82年経って、ついに我が本匠村に幼稚園が出来たのだ。村民の殆どは、何それ、と思ったに違いない。

幼稚園とは、3歳から小学校就学迄の幼児を教育し、年齢に相応しい適切な環境を整え心身の発達を助長する為の教育施設と規定されている。管轄は、文部科学省、一方、保育園は、厚生労働省の管轄。私は、昭和35年に入園した。

同じ敷地内に東小学校もあった。

当時の本匠幼稚園は、年長組のみ。

肩にカバンを掛け、歩いて10分の未舗装の道を通った。帰りに、藤原先生が、手帳に桜の判子を押してくれる。

教室で、絵本を読んだり、積木をしたり、運動場で走り回ったり。

昭和34年に入ると、ビニールパイプの導入により、自家水道や近隣共同での簡易水道の開設が進み、椎茸農家ではボタ場の灌水施設が次々に行われた。村の事業としては、村道小半線の拡幅改良が完成し、樫峰線も1500m改良工事が竣工、計画路線、架橋が目白押しであった。

そのさ中の6月、村長、村議会議員の改選が行われた。村長は、高橋弥十郎が再選。この年11月、はじめて木下知事以下の県官、NHK、日赤病院など多数を迎え、西中学校を会場として移動一日県庁がひらかれた。知事を囲む村づくり座談会をはじめ、衛生、農事、林業、福祉など各分野にわたる相談、指導が交わされ、啓発されれところが多かった。

特に、宇目、直川、弥生の町村長と共に、木下知事を囲む座談会の席上、高橋村長が力説した四ケ村循環産業道路としての、県道上津川-河内線の改修促進は、知事も了解賛同して、大きな成果であった。高橋村政は、軌道を突っ走り、公私有地の植林推進、林道、橋梁の伸長建設など成果は次々にあがった。

電話の全村導入、消防ポンプの整備、環境衛生の改善、健康保険の運営促進と、

役場職員も奮闘努力した。


※写真の一部は、ぱくたそ、pixabayより