新撰組の旗印画像「地球の歩き方」より

HIPOPO の時空探偵団<佐伯と新選組

染矢靖正です。9月23日(金)より[佐伯と新選組]というタイトルで、毎週金曜日に新しい連載を始めます。幕末の京都で[壬生浪]と呼ばれた武闘集団。佐伯地方とどんな繋がりがあったのか、最新の研究成果と、わたくし作家になり損ねた流木逸馬(ながれぎいつま)の想像力にて、物語を紡ぎます。全10話を予定してます。

[佐伯と新選組1      2022.09.23

明治10年5月18日未明。

東京の根津宮永町(現在の文京区根津宮永町)、藤田五郎は、自宅の玄関で妻の時尾

に[これより、西郷征伐に豊後へ出陣する。生きて戻らぬ時は、5月18日を命日とせよ。達者でな、さらばじゃ。]

警視本署に向かった。警視局抜刀隊の出陣式が終わり、新橋の停車場迄、行進する。正式部隊名は、豊後口警視徴募隊。先頭は、萩原貞固三等大警部。藤田五郎は、平田武雄という少警部が指揮する二番小隊の半隊長で、10人ばかりの部下がいた。新橋から、汽車にて、横浜に行く。藤田の階級は、警部補。横浜から、

船に乗る。軍艦でなく、調達した客船だった。彼らの服装は、制服に背嚢を背負い、腰に白木綿を巻いて大小の刀を差し、元込めのスナイドル銃を担っている。藤田は、新選組の時から愛用している摂州住池田鬼神丸不動国重2尺3寸1分と関孫六(2代目兼元)の二振りを持参した。彼は、この日本の最後の内戦で

死ぬつもりだった。船は、5月20日に神戸港に寄港し、大阪鎮台からの補充兵

100人を乗せた。船は、穏やかな瀬戸内海を豊後佐賀関に向けて、静かに進む。

藤田は、刀の手入れに余念がない。

彼が闘いで斬り殺した相手の数は、

宮本武蔵や荒木又右衛門の比ではない。

特に国重は、多くの血を吸っていた。

藤田五郎、新選組では、斎藤一と呼ばれた、この男は、弘化元年(1844年)1月1日

生まれ、この時、33歳。最後の闘いは

豊後の地。


[佐伯と新選組2]        2022.10.01

船が佐賀の関に着くまで、藤田五郎は、

父の事を思い出していた。

父は、山口祐助、播磨国明石藩の足軽の家だった。父の代に江戸に出て神田小川町付近の小川某(幕臣)に足軽として仕え、その後、御家人株を買ったらしい。

しかし、当時、御家人株は、安くても二百両と言われ、足軽の父には、無理だと思っていた。もしかしたら、父は、足軽でなく、商人だったのかもしれない。いずれにせよ、五郎は御家人の次男

として生まれた。近藤勇の試衛館にて

天然理心流を学んだ。沖田総司より2つ歳下だ。山口一と名乗っていた19歳の時(文久2年)小石川関口で旗本を殺した為、父がかって世話をした吉田某が、京都で剣術道場を開いているのを頼り、江戸を出奔した。その時、追及を逃れる為、姓を斎藤に改めた。

文久3年、京都にて、壬生浪士組の結成に名を連ねた。

明治10年5月21日、佐賀の関が見えて来た。藤田五郎には、初めて見る九州であった。

[佐伯と新選組3]        2022.10.09

藤田五郎は、佐賀の関の大地に一歩をしるした。[俺はこの初めて来た大地で死ぬのだ。]心の中で、再度、叫んだ。初めに

船を降りた五郎は、全員が降りるのを、激しい雨の中で待っていた。九州なのに

寒い。しかも、5月と言えば、一年の中でも、爽やかな季節なのに、強い横殴りの雨が断続的に降っていた。この海辺の町がひっそり、雨の中に佇んでいた。

3月の田原坂でも、冷たい雨が断続的に降っていた。3月末、政府軍が田原坂を抜いたという知らせが、東京の警視本署に

届いた。全員が小躍りして喜んだ。

3月4日から3月20日迄、薩摩軍の田原坂陣地を政府軍が猛攻した。双方で5000人近くの戦死者がでた。1日、32万から60万発の弾丸が飛び交った。戦後、田原坂からは、大量の行合弾が見つかった。

行合弾とは、双方から撃った銃の弾丸が空中でぶっかり、くっついて落ちた弾である。それ程、激しい戦いだったのだ。

西郷軍では、田原坂で一番隊指揮長の

篠原国幹を失った。五郎は、鳥羽伏見の戦いの時、この男の顔を見たことがあった。薬丸示顕流の使い手で、馬術、鎗術、弓術も極めて文武両道の男だった。

陸軍では、少将だった。西郷と共に陸軍を辞め、薩摩に戻ったが、陸軍の上層部は、惜しんだ。五郎は、篠原と剣を交えて見たかった。惜しい男を亡くした。

冥福を祈りなガら、今日の宿に向かった。冷たい雨は、激しさを増していた。


[佐伯と新選組3補足]        2022.10.10

田原坂の戦い

行合弾(ゆきあいだま)

[かちあいだま]とも呼ばれる。

小指の先程の弾が、ぶっかる確率は、

限りなくゼロに近い。それが、多数見つかっている。

双方で32万から60万が1日で使用された。因みに、日露戦争の第二次旅順攻撃

の時、日本陸軍が使用した弾は、30万発

と言われている。田原坂で戦死した方々に合掌。

[佐伯と新選組4]        2022.10.16

その夜、部隊は、佐賀関の港町の民家に分宿した。五郎達は、徳応寺という立派な寺だった。檀家のおなご達が総出で世話をしてくれた。熱い湯に浸かり、濡れた制服を乾かした。恐らく萩原大警部の指図であろう。彼は、平田小隊長や藤田の出自を知っていた。従う部下も皆、戊辰の生き残りであった。藤田らに、先陣をきらせようとしていたのだ。

先陣をきって死ぬると決めた連中には、格別のもてなしをせねばなるまい。


佐賀関は、妙な姿をした村だった。

海に突き出た小山のような岬があり、

そのくびれた辺りに、上浦、下浦という2つの港があった。岬の根元の丘の上に徳応寺があった。雨は降り続いていた。

5月というのに、火鉢に炭を絶やせぬ寒さであった。豊後口において、藤田達と相まみゆる敵は、二千余り、指揮官は

野村忍介。かって近衛の大尉であった。

藤田もかって、警視本署の道場で、竹刀を交えたことがあった。彼は、薬丸自顕

流の手練れであった。

彼が、なぜ警視本署に、しばしば出入りしていたかというと、大警視の川路利良

と親しかったからだ。彼は、能力が高く、川路の後釜に据わるのではないかと

の評判だった。それが、西郷の後を追う様に、鹿児島に帰ったのは、意外だった。藤田には、今度の戦に関して、ある疑念があった。この疑念は、西郷と大久保に向けられた。

部屋で火鉢にあたりながら、熱燗を傾ける。相変わらす、雨は、大地を濡らしていた。

[佐伯と新選組5      2022.10.22

五郎は、火鉢で手を暖めながら、土方の

声を聞いた。[一、まだ生きていたか。会津で死んだと思ったが。早く、俺の所に来い]心の中で[土方さん、この薩摩との戦いで死にます。すぐ行きますよ]と答えた。土方とは、会津に行く前に別れた。

土方は、新選組の旗を五郎

に渡し、[俺は函館に行き、榎本武揚と行動を共にする。新選組の旗は、お前に託した。俺は、函館で、土方歳三として死ぬ]

言葉通り、函館で死んだ。五郎は、自分が生き過ぎたと思っていた。ここらが潮時だ。[今晩は]襖の向こうから、女の声がする。[誰だ][梅と申します][入れ]

五郎は、萩原の差し金だと思った。恐らく平田の部屋にも、女が手配されたに違いない。中に入り、顔を上げた女を見て

驚いた。明里ではないか。まさか?

京都の新選組の屯所の近くに、輪違屋と

いう置屋があった。そこに、明里という

遊女がいた。明里は、山南啓助副長の

女だった。しかし、山南は、脱走の罪で

切腹した。その時、明里は22歳。

明里には、かなり歳の離れた妹がいる

と、山南から聞いたことがあった。

まさか、妹がここに?実は、五郎は

明里が好きだった。雨の音が益々、強くなり、寒さも増してきた。

梅に身元を訊いても仕方がない。

梅と床に入る。未明に、雨の音で目が覚めると、既に梅はいなかった。

[佐伯と新選組6      2022.10.29

豊後口の決戦の前に、熊本民謡[田原坂]を説明しよう。

西南戦争から27年後、明治37年に日露戦争が始まる。朝鮮半島と満州の権益をめぐり日本とロシアが戦った。

この年、[田原坂]が全国的に流行した。

作詞は、熊本日々新聞記者の入江某、作曲は、熊本の芸妓留吉。藤田五郎は、明治24年、48歳で警視庁を退職し、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の庶務掛兼会計掛に勤務していた。

この歌を聴くと、豊後口の激戦を思い出した。[七七七五]の甚句形式

・雨は降る降る    人馬は濡れる

   越すに越されぬ       田原坂

・右手に血刀         弓手に手綱

   馬上ゆたかな      美少年

・山に屍                  川に血流る

  肥薩の天地           秋さびし

・草を褥に              夢やいずこ

   明けの空に          日の御旗

・春は桜よ               秋なら紅葉

   夢も田原 の              草枕

・田原坂なら           桜の下よ

   男同士の                夢の跡

五郎は、この歌を聴くと

会津で共に戦った、[鬼の官兵衛] と異名を取った、佐川官兵衛を思い出す。

佐川は、3月18日に、田原坂で壮絶な最期を遂げていた。


[佐伯と新選組6訂正と補足]        2022.10.30

昨夜、熱烈な読者から、有難いご指摘を頂いた。佐川官兵衛の最期の地に、ついてである。私は、文章の流れからして、つい田原坂としてしまった。彼は、阿蘇の白水村から長陽村黒川に進み、湯の谷温泉昇り口付近の窪道にて、鉄砲で撃たれた。

[君が為    都の空を    打ちいでて

阿蘇山麓に    身は露となる]

辞世の句である。

会津藩の300石に生まれ、幕末には、

家老に上り詰め、会津戦争を指揮した。

明治7年1月、大警視の川路利良は、会津にいる佐川官兵衛を口説き落とし、一等大警部に就けた。佐川は、旧会津藩士300名も連れてきた。藤田五郎も、佐川に説得され、警視局に入った。佐川は、第二次警視隊として、五郎より先に、出陣していた。鬼官兵衛も、鉄砲には、勝てなかった。享年45歳。

[佐伯と新選組6-2      2022.10.31

流木逸馬の作家魂に火がついた。

本題から横道に逸れることを、お許し頂きたい。7話の豊後口決戦の模様は、11月5日に、必ず配信致します。

有り難うございます。感謝致します。

熊本県民謡の[田原坂]にある[馬上ゆたかな美少年]とは、一体、誰だろう。

いろんな解釈がある。

特定の人物ではなく、戦いに参加した

多くの若者達だとするのが、一般的だろう。だが、二人の人物に特定されると言う説もある。それを紹介しよう。

一つ目の説は、薩摩軍、2番大隊指揮長

村田新八の長男、村田岩熊。米国留学帰りの前途有望な若者であった。

田原坂の戦いの最中、ある政府軍兵士が、西郷軍の若い兵士の所持品らしい

手帳を持ち帰った。手帳には、英語を交えたメモが記されていた。それを見た

鹿児島出身の政府軍将校は、[村田新八どんの息子、岩熊の手帳に間違いなか。有望な若者であったが、死んでしもうたか]と泣いた。岩熊、享年19歳。

この時点で、村田新八は、息子の死を知らなかった。相変わらず、田原坂に冷たい雨が降り続いていた。

[佐伯と新選組6-3      2022.11.01

もう1つの説は、人吉藩士、三宅伝八郎

。明治の初期、若き士族たちは、時の政府打倒を目指して、各地に集まっていた。熊本の人吉城下でも、尚兵館の三宅伝八郎らは、藩閥政治を憤り、西郷軍の力を借り、打倒明治政府を画策していた。三宅は、仲間と共に、西郷軍に加わり田原坂に向かった。しかし、田原坂で西郷軍は敗退、伝八郎は、田原坂の陥落を二本木の薩摩軍本営に、急報する為に、単身、血刀を振るって政府軍の囲みを突破して、馬を馳せた。

しかし、一発の銃弾が伝八郎の身体を貫いた。暫くして、恋人の雪江が田原坂辺りに、伝八郎の姿を求めたが。彼女の目に映ったのは、主人を失いさまよう愛馬の姿だけだった。

三宅伝八郎、享年20歳。

昭和37年8月、東映より[馬上の若武者]が

上映された。勿論、三宅伝八郎が主人公だった。。当時、19歳の北大路欣也が、伝八郎を演じた。主題歌は、この年の2月に発売された、こまどり姉妹の

[三宅伝八郎はよか稚児ざくら]

こまどり姉妹は昭和34年デビューの

双子のデュオ。代表曲は[ソーラン渡鳥] 歌詞を紹介しよう。

[1・雨はふるふる人馬は濡れる

ふるは  ふるは血の雨    田原坂

三宅伝八郎はよか稚児ざくら

銀の鐙(あぶみ)に紫手綱

今宵 今宵 散る身の  ああ美少年]

作詞は西沢爽、作曲は市川昭介

この歌は、映画とコラボしたものだろう。

私は、当時、父に連れられ、この映画を佐伯で観た。父は、時代劇が大好きで、

特に、東映の二大スター、市川右太衛門、片岡千恵蔵が大好きだった。

北大路欣也は、市川右太衛門の息子、

観に行かないわけがない。

最後の、伝八郎が馬から落ちるシーン

こまどり姉妹の歌が流れる。

父の背中が震えていたのを、覚えている。

[佐伯と新選組6-4      2022.11.03

明治10年2月、薩摩軍が立ち上がり、熊本に向かうと、九州各地の士族達も、薩軍と提携して政府を倒そうと、一斉に立ち上がった。中でも熊本では、守旧派士族であった学校党に属する1400名が、2月22日早朝、健軍神社に集合した。会議を開き、薩軍の熊本城攻撃の砲声が響く中、挙兵と決した。同日夕刻、神社に神楽を奉納し、結成式を行う。

池辺吉十郎を隊長に仰ぎ、副隊長、松浦新吉郎、参謀、佐々友房。熊本隊と号した。健軍神社前に、熊本隊の出陣の碑が残っている。熊本隊は、高瀬の戦い、田原坂の戦いに、奮戦し、8月17日宮崎県長井村(現北川町)で降伏した。

隊長の池辺吉十郎は、明治10年10月26日

長崎で処刑。享年40歳。

参謀の佐々友房は、降伏時、3番中隊長となっていたが、池辺は、[友房は、将校ではない、若い一兵卒だった。]と庇ったので、死罪を免れた。宮崎の監獄に収監された。獄中で、青年子弟を教育することが、国家の急務だと痛感した。

明治12年、25歳で出獄すると、

熊本市高田原相撲町に、同心学舎を設立した。明治15年2月に済々黌と改称した。今の、熊本県立済々黌である。

実は、[民謡田原坂]の作詞者の入江某は、熊本隊の生き残り、済々黌中学の舎監となり、明治21年、田原坂に遠足に

行った折りに、作詞したらしい。

生き残った者達は、明治の荒波の中を必死に生きていた。

[佐伯と新選組7      2022.11.05

野村忍介(おしすけ)は、肥後において、薩摩軍か敗れると、二千の兵の将となって、東側の豊後口に突出して来た。

西郷の座す本営も、人吉盆地を出て延岡まで進出した。豊後口の官軍は手薄であった。野村忍介の率いる軍勢は、強く速く、何とかせねば、官軍が本営を置く小倉に迫る。小倉で官軍の指揮を執っていた山県有朋は、焦った。

そこで、警視隊

千名が豊後口へと派遣され、薩摩軍の先鋒とは、目と鼻の先の佐賀関港に上陸したのだ。五郎達は、後詰めではなく、いきなり、最前線に上陸したのだ。

五郎達は、詳しい戦況は、知らないが、相手が野村忍介と聞いた時には、何やら嫌な気分になった。誰であろうと、知った仲と戦うのは、嫌なものである。相手の中には、かなりの数の警察官もいるはずだ。警察官同士の戦いになる。

その頃、川路良利の率いる別働第三旅団は、遥か遠く肥薩の国境にあった。

その主力は、五郎らに先行した警視隊だった。野村忍介の本営は、内陸の竹田にあって、更なる北上を窺うているという

話である。だとすると、五郎達は、佐賀関から南に下り、適切な場所に布陣して

敵を待つことになる。明日は、雨の中を

一日行軍になると思っていた矢先、非常を知らせる太鼓が鳴った。

[佐伯と新選組8]        2022.11.12

鶴崎に出張しておった警視隊が急襲され

皆殺しの目にあったのだ。命からがら

佐賀関まで逃れてきた巡査は、雨中の

斬り込みゆえ、敵が何者かは判然とせぬ、と言う。寒い話だ。敵が何者かわからぬとは。野村隊は、竹田にいると聞いていた。ゆえに、鶴崎を襲った敵は、それとは別だと思った。

官軍が真に恐れていたのは、西郷軍ではなかった。奴らが善戦しておるうちに、あちこちで不平士族や反政府勢力が、立ち上がったらどうする。佐賀の乱や神風連の乱が示すように、九州はそれら勢力の巣窟であった。本堂で戦支度をしていると、小隊長の平田がやって来た。

[おぬしの意見が聞きたい]

気が進まぬが、しぶしぶ庫裏へと向かう。座敷に、行灯を据えて、萩原大警部以下の参謀が車座になっていた。

彼らは、五郎の経験を頼り、知恵を借りたいと思っていた。大警部の橫に大あぐらをかいて、座る。担当の巡査が、すぐに、大徳利を捧げ持ってきた。

五郎は、乱暴者だが、馬鹿ではない。

あの、中村半次郎よりは、いくらかましだ、と思っていた。軍議に臨み、策を立つる位はできる。

[鶴崎の敵をどう見る]萩原は、箸の先で

拡げた地図を示しながら、訊ねた。

[拙者のごとき天保頭に、明治の戦はわからぬ]萩原は、面々を見渡して笑った。

[どれも似たものじゃ。しかし、実戦の指揮を執った者はない]

五郎は、九州の地図をまじまじと見たのは、初めてであった。

全く知らぬ土地ではあったが、戦況を書き込んだ地図を見て、勘が働いた。

九州は、平野に恵まれておるので、かっては、四十を越える諸藩があった。

およそ、西半分は、福岡、佐賀、久留米、肥後といった大藩で、南は、薩摩藩。しかし、東側、ことに、豊前、豊後には、小藩がみっしりと割拠しとおり、

そのすきまは、大藩の飛地や天領で埋められていた。明治もまだ10年、廃藩置県はなったとは謂えども、実態は、藩政時代のままと言っても過言ではない。

すなわち、かって、小身の大名と代官がこまごまと治めていた、この辺りには、

新政府の威令が及びにくい。

野村忍介が豊後をめざした理由が、五郎には、理解できた。このあたりに潜伏する不平士族と結び、新たな一大勢力となって戦う。日本国対鹿児島の戦を、

政府対反政府の戦に拡げることが、

野村忍介の狙いと読みきった。

もし野村の策が中れば、一千ばかりの警視隊など、物の数ではない。我々は、西郷軍の先鋒と戦うのではなく、幾万とも知れぬ反政府勢力の、まっただ中に放り出されたのだ。

[拙者にはわからぬ。敵の素性などどうでもよかろう]五郎は、思うところを何一つ

言わず、ぞんざいに、そう答えた。

外では、冷たい雨が降り続いていた。

[佐伯と新選組9]        2022.11.19

萩原は、けっして臆病者ではない。

しかし、しょせんは薩摩人であるというだけで、軍兵を率いて戦ったためしのない若僧だった。しかし、[鶴崎の敵は寡兵につき、第一中隊をもって、殲滅する。斥候は藤田半小隊。ただちに出発せよ]

と命じた。本堂に戻ると、十人の部下は、戦支度をととのえて、待っていた。

萩原は、五郎の腕を試すつもりで斥候を命じたのだ。部下達は、実包を込めたスナイドル銃を持っていたが、五郎は国重を腰に差し、替え刀を背中にくくりつけた。寺男に道案内をさせて、徳応寺を出れば、土砂降りの夕まぐれであった。

鶴崎はかって、肥後熊本54万石の飛地であった。細川家歴代の殿様は、参勤交代の折りには、陸路をたどってここに至り、船で瀬戸内へと乗り出したという。

大藩の要衝ゆえ、城下町の体をなしており、中心には飛地ゆえに、[御茶屋]と称する陣屋が設けられていた。

そこを取られれば、瀬戸内への出口が開いたことになる。よって警視隊は、佐賀関上陸と同時に半小隊を鶴崎へと派遣していた。そこを急襲されたのだ。

敵が、どれほどの勢力なのか、鶴崎の情勢がどのようになっているのか、五郎は何一つ知らなかった。そんなことは、どうでもよい。十年振りの戦に、えり好みをするなど贅沢であろう。

萩原は敵を[寡兵]と言うたが、何の根拠もあるまい。しかし、数の多寡など、どうでもよかった。腰の国重も、背中の孫六も、飢えた童の如く、[早う!早う!]と唸っていた。

闇の中、土砂降りの雨が体を叩く。

[佐伯と新選組10      2022.11.26

ここからは、藤田五郎、本人に語ってもらおう。

わしは気が急いておったので、鶴崎をすぐそこだと思うていた。歩き出してみると、案外遠かった。佐賀関からは、5里ばかりあった。ようやく、川向こうに渡し場の常夜灯がみえたのは、随分と夜も更けてからであった。河口の辺りに橋がなかった。もやい船の纜を解いて乗り込み、海に流されぬよう往生しながら大川を渡った。暫く行くと、荷車の轍が二筋の川流れのようになった場末の通りに出た。

住民は寝静まっていたのか、それともどこかに逃げてしもうたのか、家並みは、まるで黒い影絵の如くであった。辺りに気を配りながら進むと、二つ三つの仏が転がっていた。いずれも警察官であった。少し先にぼんぼりを置いた様な灯りが見えた。耳を澄ませば雨音を縫うて、酔いどれの歌声が聞こえた。

呑気なものじゃて、この雨では敵の反撃もあるまいと思うてか、酒をくろうて

気勢を上げておったのだ。だにしても、歩哨の1人位は立っておってもよいのに。わしは、部下達をその辺りの物陰に控えさせた。歩哨も立てぬからには、大人数がおるわけでもあるまい。

奇襲した本隊はいずくへか引き揚げ、幾人かの呑ん兵衛どもが戦勝祝いをしておるのであろう。いや、わしの気持ちを有り体に言うのなら、相手の都合などどうでもよかった。十年ぶりのご馳走じゃ。

鉄砲の餌食にするなどもったいないわ。

制帽の庇から流れ落つるほどに、雨は降りしきっている。それにしても、うまい舞台を誂えてくれたものじゃ。静まり返った宿場の、番屋か何かの様なところに、酔っ払った獲物がおるのだ。灯りが近づくほどに気が伝わって、十人とはおるまいが五人か六人と読めた。

ゆっくりと歩を進めながら、わしは雨衣を脱ぎ捨て、制帽の顎紐をかけた。そして右腰に差した国重の鯉口を切った。

雨は、制帽の庇から流れ落ちていた。

[佐伯と新選組11-1      2022.12.04

番屋の戸口に立った時、過ぎにし、幕末の京洛の記憶が甦った。あの若き日の、輝かしい俺に返った。藤田五郎でもなく、山口二郎でもなかった。

新選組副長助勤、三番隊長、斎藤一だ。

この獲物を沖田や永倉に食わせてなるものか。わしは鶴崎の番屋の前に佇んだまま、両手を腋の下に挟んで温めた。

それは、わしが仕事にかかる前の、おきまりの仕草であった。夏ならば、そうして掌の汗を拭う。冬ならばかじかんだ指を温めるのだ。五人と読んだ。雨の夜は、刺客にとって都合がよい。戸外の気が、雨音に消されるから。初太刀の前に、腰を割って頭二つばかり身をこごめた。地を舐めるように体を沈ませて、戸を開けた。土間に置いた金火鉢を囲んで五人が酒盛りをしていた。番屋に滑り込み、抜きがけの初発刀で、一人を股から

上ヘと斬り上げ、返す刀で、もう一人の首を飛ばした。しかし、逃れんとして背をむけた者を斬り倒すのは案外、難しい。相手が数にまさる時は、一撃必殺の剣を揮るわねばならない。これでよしと思う間合いから半歩踏み込んで、さらに二人を斬った。最後の一人は、かろうじて剣を抜き合わせた。目の前で四人も斬られたのでは、どんな手練れでも腕前は披露できまい。ぶるぶると震える、そやつの切先に、国重の切先を片手であわせて睨み据えた。

[野村忍介の配下か、それとも土地の者か]わしは、訊ねた。

[奇兵隊じゃ]とそやつは答えた。

野村忍介の率いる二千の軍は、奇兵隊と称していた。

[佐伯と新選組・最終章11-2]      2022.12.10

なるほど言われてみれば、そやつは白い襦袢に官給品の袴下を着けており、西郷軍に呼応したそのあたりの不平士族には

見えなかった。


[本隊はどこじゃ]

[竹田口に戻った]わしは、間合いを切って、刀を鞘に収めた。最初は、そやつを捕虜にしようと思った。しかし、拷問を受けてなぶり殺しにされるのがおちであろう。[服を着るがよい]わしは、板敷に脱ぎ置かれた警察官の制服を指さして言うた。そやつは刀を捨て、制服を着始めた。ボタンも満足にかけられぬほど震えていた。わしはそやつを斬った。身繕いの仕上がったところで、抜きがけに胴を払った。羅紗地の洋服がどれほど刃応えするか確かめる為に。京にいた頃は、わしが斬った者どもは、みな麻や木綿の着物であった。この先の戦いに備えて、羅

紗地の厚い制服の相手の斬り方を会得した。わしは、金火鉢の傍らに腰をおろし、徳利の残り酒を飲んだ。中味は薩摩の焼酎であった。わしは焼酎を好まぬが、この時ばかりは、うまいと思うた。

実に十年振りの、腹の底までしみ渡る酒であった。人の気配で目を上げると、部下の警官どもが、鉄砲を腰だめに構えて、戸口に立っていた。[撃つな、わし一人じゃ]しばらくすると、平田が小隊を率いて到着した。[何があったのだ]平田は、叱るように言うた。わしは[仲間割れじゃろう]と嘘をついた。仏を検めて、平田は驚ろいたであろう。どの仏にも、二つの傷はなかった。仲間割れではないと

すぐに気付いたはずだ。平田だけに[こやつらは奇兵隊じゃ。野村忍介は竹田口にいる]と告げた。人間、頭で覚えたことは

忘るるが、体で覚えたことは忘れぬものじゃ。わしの剣術は居合いゆえ、相手と激しく打ち合うことがない。

よって、刀が折れたり、曲がったりする気遣いは無用であった。十年振りだったが、人斬りと怖れられた若き日と同様に、刀を抜き合わせる間もなく敵を倒した。体で覚えたことは忘れぬのだ。

佐賀関に戻る道すがら、土方が [これからは、刀や槍の時代じゃねえ、

鉄砲にはかなわねえなあ]と囁きかけてきた。

相変わらず、雨は降り続いていた。