もう一つの西南戦争発見プロジェクト

  西南戦争(1877年)は日本で最後の内戦である。全国の不平士族の不満の噴出点にある戦争である。明治政府の秩禄処分(1876年)が引き金になった。熊本県の田原坂の戦い(3月)が名高いが、この戦いで敗れた薩軍は官軍の攻勢に後退を余儀なくされていく。その後、薩軍は本営を人吉から延岡に移し大分県に侵攻(5月)してくる。官軍の後方を攪乱することが目的ともいわれる。野村忍助指揮による奇兵隊(3千人)が重岡に入り戦端が開かれる。奇しくもその300年前に島津家久もここから大友氏の豊後に侵攻してきた。


 ただ、薩軍の大分県での戦いはそれまでと様相を異にする。薩軍は軍資金、武器弾薬、食料が不足状態で侵攻してきた。軍需は現地調達によらざるを得ない。行く先々で、略奪、供出、強制使役が頻発することになる。士族の戦いから多くの民衆が直接巻き込まれる戦いに変化しているのである。大分県(佐伯地方)の西南戦争はそういう側面を持つことに留意しておくべきであろう。

 佐伯地方での戦争は3ケ月間と長い戦いである。薩軍は豊後侵攻後、竹田、臼杵と瞬く間に占領していく。

 竹田を回復した官軍は三国峠の奇襲勝利を契機に薩軍を日向まで後退させる。

 延岡で体制を立て直した薩軍は日豊の境界線上の山岳地帯、海岸地帯で最後の戦いを挑んでくる。

 一方、臼杵、佐伯からの薩軍の後退を決定つけたのは海軍による海上からの艦砲射撃であった。

 8月16日、延岡長井での西郷隆盛の全軍解散命令をもって豊後での戦いも終わる。

 薩軍は終始弾薬不足に悩まされた。行く先々で供出させたり製造させたりと、官軍の豊富な物量に対し不利を強いられ続ける。弾薬不足に鑑みた西郷隆盛の薩州三発令が象徴的である。「三発撃った後は、抜刀で切り込むべし。」

 日向に押し戻された薩軍は日豊境界線の山岳地帯で最後の反攻に出る。薩軍による周辺住民への鹿砦構築、荷役等の使役も激しさを増していく。

 官軍も同様に住民を半強制的に使役する。ただ、こちらは給金を出した。官軍特需でも潤った。民衆は軍需景気に淡い夢も見させられたのである。罪な戦争であった。

 日豊境界線は山岳である。戦いに際しては自然の堅固な防衛壁となる。ここを突破するには壮絶な戦いになる。遂に”矢尽き刀折れた”薩軍は撤退していく。

 この山稜(峠)は、その300年前に島津家久が豊後侵攻から撤退し、350年前に佐伯惟治が大友勢に負われて落ちていく道そのものでもある。

山岳戦は双方が膨大な台場を築くことになった。多くの住民がその建設に使役された。尾根までの材料の運送も大変な労力を要した。その跡が今は歴史の中に埋もれいっている。

竹田では1500戸、臼杵では300余戸が焼失した。竹田は薩軍の戦略拠点であり臼杵は四国への渡海拠点と目された。薩軍は略奪、供出、従軍徴発、可能な限りの住民へ圧迫を加えた。如何に軍需の不足下での戦いであったかの証左である。

最初から兵力面での薩軍の不利は明らかであったが不平士族の参加への期待が大きかった。熊本隊、中津隊等その数は17千人に達した。

また、官軍による住民の使役費用(給金)が如何に大きかったかが分る。

戦争の経費は莫大なものであった。国家予算の7割に相当する。その後、国民はそのつけを払わされることになるのである。

佐伯地方に関連する戦争の状況である。佐伯地方のほぼ全地域がこの戦争に巻き込まれたことになる。

田原坂の戦いは、この地方(熊本県の植木・玉東)の主要な観光資源となっている。我々はもう少し違った角度から佐伯地方の西南戦争について考えてみてはどうだろうか。