かつてこの地を14代400年治めた佐伯氏の歴史を偲ぶことの出来る機会が少ない。その史跡や文献が殆ど残されていない為である。島津家久を追った佐伯氏最後の若き当主惟定が大友氏の豊後徐国に連座しこの地を去ったその時の無念を想うと忍びない。以来、400年の月日が過ぎた。
豊後の大族、大神一族の本流として豊後南部に勢威をはり、守護として鎌倉から派遣されてきた主家大友氏への国人対抗勢力として最後までその矜持を豊後一円に示した佐伯氏にもっと関心をもってしかるべきであろう。
後から入封した毛利氏が意図的にその事績を消し去った可能性も高いが、それは時の治政者の所業として歴史によくある行為である。毛利氏に関しては佐伯城によってその多くを追慕出来るが佐伯氏に関しては何をもって追慕すべきであろう。その400年の歴史を封印してしまってはならないだろう。
大友氏系の領主は同紋衆と呼ばれ優遇されたが、大神系の国人領主は他紋衆と呼ばれ冷遇された。大友系の中でも主家に対抗する勢力もあり、国人領主の反抗と相まって大友氏にとっては最後までこれが宿痾となった。
中でも佐伯氏は唯一、大神系一族として最後まで大友氏の血を入れることは無かった。
まさに中国の守護大内氏におけるこれを討った国人毛利氏のような存在であったろう。
佐伯氏はこれと気脈を通じ連携行動を起こしている。
加え、外部勢力としての大内氏、菊池氏がそれぞれ両家を利用しようとしたことも内紛を複雑にした。
ただ大友氏を倒し、大内氏の毛利氏のように豊後の支配権を得るには至らなかった。
魔術を使ったと伝わる僧・春好は惟治により一上寺、二上寺、三上寺を与えられた。惟治もまたその術の習得に没頭したと伝わる。
大内氏の水軍が攻め込んで来たことに見られる防衛上の弱点が移転の動機であったともいわれる。