ふるさとの光景

 <遥かなる山の呼び声> 2023.01.26

 「豊後の国佐伯」を去って一週間が過ぎた。佐伯地方の山野河海を巡り歩いたことを体は忘れていない。だからしつこく歩かせろと言ってくる。都会の街路や公園を歩くのだが何だか体がすねている。安全で歩き易く自然も整然としていて美しい。どうやら体にとってそれが面白くないらしいのである。箱庭の自然だからであろう。

遠く丹沢山塊の稜線が見える。最高峰は蛭ヶ岳で1,673mと佐伯五山の一つである傾山(1,605m)よりやや高い。富士山も稜線の後ろに偶に頭を覗かせる。今までは何ということもない風景だったが今は心を騒がせる。あの稜線を歩きたい。

国木田独歩を思った。独歩にとって「豊後の国佐伯」は特別な存在であった。佐伯は独歩を覚醒させた地である。佐伯なくして独歩の文学は成立し得なかった。この地で独歩はその自然に深く動かされワーズワースに没頭した。飽くことなく佐伯地方の山野河海を歩き回った。この地の自然とそこに調和的に生きる人々の風景は心を打つものばかりだった。独歩にとって、この「僻地は宝の山と海」だったのである。佐伯を去って後、「佐伯を思い出すと涙がこぼれそうになる」独歩の心情が、今、分かるような気がする。

帰省中はその「日豊をぶらりぶらり」した。そして今得心したのである。佐伯の最大の宝物は国木田独歩の愛した風土なのだ。それこそ佐伯にとって唯一無二の価値なのだ。独歩の作品には佐伯地方のあらゆる風景が感動をもって生き生きと描かれている。それを再発見すればいいのである。そこには「自然と人間の関係性」という普遍的価値が潜んでいるように思うのである。

何だか丹沢の稜線を歩いてもその感動は得られないような気がしてきた。嗚呼、佐伯地方の山の呼び声が止まない。

豊後の地、山険にして渓流多し、所謂山水の勝に富む。茲は別天地なり。国道の通ずるあるなく、又航舟の要路に当たらず。山多く已に水田に乏しく、地痩せて物産すくなし。 」(豊後の国佐伯)

余が初めて佐伯に入るや先ず此の山に心動き。余已に佐伯を去るも眼底其景容を拭ひ去る能わず、此の山なくば余には殆ど佐伯なきなり。」(豊後の国佐伯)

自分の眼底には彼地の山岳、河流、渓谷、緑野、森林悉く鮮明に残っていて、我故郷の風物よりも数倍の色彩を放っている。」(小春)

僕は此の詩集(ワーズワース詩集)を懐にし佐伯の山野を歩き散らかしたが、僕は今もその時の事を思い出すと何だか懐かしくて涙がこぼれるような気がするよ。」(小春)

自分が真にワーズワースを読んだは佐伯に居る時で、自分が尤も深く自然に動かされたのは佐伯に於てワーズワースを読んだ時である 。」(小春)

山に富み渓流に富み、渓谷の奥に小村落あり、村落老て物語多く、実にワーズワース信者をして「マイケル(牧歌的な詩)」の二三は此処彼処に転がって居そうに思はしめたくらいである。 」(不可思議なる大自然)

自然を思ひ、人間を思ひ、人類の歴史を思ひ、人の生活を思う。思うて止む能わず。嗚呼思うて止む能わず。美しい哉自然、而してその間に多くの此自然と調和する人間を見たり。皆な美しき配合を想像の裡に形づくる也。」(欺かざるの記)

<白い一日> 2022.12.24

 古来、旧中野村との交通を阻んできた鬼ケ瀬の深い淵もそこに流れ込む白谷とよばれる峡谷も石灰岩塊で出来ている。この峡谷一帯の集落を「風戸」といい、その上流、標高500mほどの山上集落を「風戸山」と呼ぶ。更にその上に巨大な椿山(659m)が屏風のように聳え立っている。番匠川の下流沿いの何処からも見ることが出来る巨峰である。

 この白谷峡谷には「豊後国志」にも紹介されている「風戸洞」、「白谷洞」、「地獄谷」がある。いずれも水流が巨大な石灰岩塊を穿ち、削って造形したものである。風戸洞は河床近くに穿たれた鍾乳洞で豊後国志には、「冷たい風が常に吹き出していて時に強く時に微か」とあるように、風が湧き出る不思議な洞窟で「風戸」の地名の語源になった。少年時代にこの穴に入った事があるが今回は場所を探せなかった。

 「斧が裂く如し、白石磷磷たり(斧に切り裂かれたような谷で玉が光り輝いている)」とあるのは地獄谷のことである。岡藩竹田村に生まれた江戸期の南画家、若き日の「田能村竹田」が踏査しそう報告した。「石壁白色にして玉の如し」は白谷洞を表現したもので通称を「蝙蝠穴」という。いずれも少年時代以来の探訪であったが道筋は自分で探すしかない状況になっていて今や地元住民からも忘れ去られてしまっている。同行した地元の友人達も初めての探訪であったのだから嘆かわしいことだ。

 奇跡のような光景があった。地獄谷の入口は狭い。その上部に落石が挟まっていた。ハートの形をしている。後年の崩落によるものと思われる。すぐ側まで石灰砕石現場が迫っており谷に昔日の絶景は減じていたが谷底の大きな白い玉は輝いていた。対岸の蝙蝠穴に小さな入口から腰をかがめて入ると巨大な薄暗い空間が現れる。上から明かりが差し込んでいた。近づくと先ほど見た地獄谷入口のハートの石がそこから吹き飛んでいったような同じ形をした穴が開いていた。この対のハートは脚光を浴びてもいい。穴の中は湿気を感じ暖かく年中気温変化のないことが分かる。奥は深く「石壁白色」はややくすんでいた。この洞窟に狩猟採取の旧石器人が住んでいた可能性を否定する必要もなかろう。

 そこから風戸山に登った。弥生地区の谷口、尺間長畑を繋ぐかつての峠の集落でもある。10年ほど前に最後の住民が麓に降りた為に長い歴史を閉じた。最盛期には80戸程の大集落で椎茸栽培を専らにした。原木となるクヌギ林は十分な程に成長し冬日を浴びていた。森閑とした尾根の端に鵜戸神社の廃墟がある。その脇裾の台地に室町末期まで辿れる五輪塔の一群が残る「寺屋敷跡」がある。五輪塔は無惨にもいずれも倒壊し、広場は猪の「ぬたば」になっていた。麓に降りたかつての住民を訪ねると寺も神社も由緒があったとの話であったが民俗の伝承とともに絶えてしまった。それでも今も尚、何とも摩訶不思議な雰囲気の漂う風戸山であった。

 そこから一気に椿山に直登した。佩盾山までの本匠地区の北尾根を一望出来る絶好の山である。遠く佐伯五山の輪郭も鮮やかに、振り向くと異様なまでの尺間山が彦岳の前に立ち塞がっていた。豊後大野平原の向こうにはくじゆう連山や鶴見岳が白く輝いていた。前日は雪もちらほら舞う寒風の中、三重カントリーからこの北尾根に向けてショットを放ったばかり。少々老体を酷使し過ぎではないか、と山の北風に言われたような。

 梓峠でのそれを凌ぐまでの豪勢な友の手作りの午餐を山頂に催し、皆の今ある健康と生きる悦びに頭上の天に感謝した。帰路、麓の訪ね人の「風戸洞は石灰砕石の都合上崩落せしめた」との言葉にやや心が疼いたクリスマス・イブでもあった。

<思い出ぼろぼろ> 2022.12.09

 労働の後は出かけたくなる。鶴見の沖松浦でタイムスリップした。父の西中浦中学校赴任に伴いそこに五年間住んだ。60年前の事である。地松浦と沖松浦に挟まれた埋立地に西中浦中学校があった。校庭は海に面し豊かな青松が風を防いでいた。その中学校と背中合わせの松浦小学校に二年生まで過ごした。父は25年後に二度目の赴任をしている。

 佐伯からは未だバスは通わず、国木田独歩も伊予経由船で赴任してきた葛港からの定期船が人々の足だった。沖松浦の吉祥寺(1571年創建)の下の成松家の空き家を借りて住んだ。成松氏は伊予法華津氏を祖とする。沖松浦は成松姓と広津留姓の本拠地でもある。

 その後、中学校の脇を流れる小さな川の河口付近にあった木造二間の村営住宅(昭和36年初まで鶴見村)に住んだ。今はいずれも更地となっていて思い出の痕跡を探すことは不可能だ。

 沖松浦の真浦と北浦の間に旧道が残っている。海岸沿いに新道が出来た為に温存された。その代償に網小屋や小石を敷き詰めていた浜は消えていたが、あの日に変わらずトンビが舞っていた。

 その旧道を歩いた。古びてしまったが見覚えのある家が吉祥寺下の角地に残っていた。過去と現在が同居しているような空間だ。この家でよくテレビを観せてもらった。毎夕刻のヤンマー提供の天気予報の映像と共に流れていたチェロの奏でる切なくも雄渾な旋律の「サンサーンスの白鳥」が幼い心に染みた。以来、今に至ってもこの曲を聴くと沖松浦のこの家を思い出す。今は空き家になっていた。

 裏手の階段から吉祥寺に登った。感動的な光景が待っていた。幼い日、その実を拾った椎木が未だ階段横の斜面に残っていた。当時は空が暗くなるほどに枝ぶりが見事だった。正式には「スダジイ」、樹齢350年とあった。当時、階段は鉄柵の代わりに椿の生垣が続いていた。椎木に見守られながら遊んだ思い出深い場所に差し込む陽光が眩しかった。

 寺は建て替えられていて面影はない。クジラに運ばれたとの伝承のある十一面観音はご開帳の日まで厨子に収められていて拝めない。成松氏の先祖が海から拾い上げ祀ったと伝わる。それでも「花まつり」にお釈迦様の像に甘茶をかけた思い出が蘇ってきた。その味覚も舌に未だ残っている。

 参道側から降りて集落を巡った。当たり前とはいえ全く様変わりしていて記憶が戻ってこない。蜜柑畑もメジロ獲りをした山道も消えていた。旧道に面した網元の大きな家も、家の軒を覆っていた松の大木もない。その脇を流れていた小川も見つからない。塀だけが残っている廃墟があった。近寄るとその塀には見覚えがある。懐かしい記憶が戻って来た。そこを駆ける幼い自分を追った。

 借家した寺の下の更地には成松の表札の残る門扉だけが残っていた。昔はこの家の庭は生垣に囲われていた。砂糖をまぶしたきな粉がおやつだった。椿だったか柊だったかその硬い青葉をスプーンにした。入れ物替わりの丸めた新聞紙の底に入ったおやつをコフッコフッとむせびながら掬って食った記憶が戻ってきた。

 二番目に住んだ借家の跡地まで来た道を戻った。学校脇を流れる小さな川では鰻釣りや小魚を掬った。鰻の棲んだ石垣の堤は消えて川床さえもコンクリート張りになっていて思い出もその下に埋められてしまっていた。その小川を遡ると天神社がある。その先は田圃が広がりどんど焼きが赤々と空を焦がした。そこに住宅がひしめいていた。

 あの頃のクラスメートはどうなっただろう。同じ記憶を共有しているはずなのだが彼らにはこの地に60年の空白は無い。父が大切に保管していた西中浦中学校の閉校記念誌にそれから7年後の彼らの卒業写真が載っていた。小学校二年生の時の集合写真を眺めつつ面影を探したが殆ど分からない。それでも懐かしい何人かの顔が確かにそこにあった。

 父の離任の年に佐伯から初めてバスが通った。そのバスの通った旧道から幼い自分を乗せて帰途についた。また来てもいいかな。

<田園の違和感> 2022.12.08

 「何だ、あの異物は。」、第一印象である。

 昔の田園にない風景に違和感を覚えるのは仕方がない。稲刈りを終えたそれぞれの田圃の一角に白いシートで覆われた牧草ロールのようなものが積み上げられている。何だか東北の原発事故による汚染土を仮保管している黒い土嚢が想起されるのは仕方がない。何しろ昔の田圃には存在しなかった異物なのだから。

 全く知らなかった。多くの田圃で食料米に代わり飼料米を作っている。一般的に人間が食すには適さない。稲穂ごとロール状にして家畜の飼料にする。その保管風景なのだ。発酵させているのだろうか。長い時間そのままに置かれている。サイロなんて大規模な保管施設がないからなのかもしれない。

 違和感の元は他にもある。欧州でよく目にした牧草ロールの置かれた田園風景である。風に運ばれてくる牧草の匂いと牧草ロールの風景は欧州の田園風景に欠く事の出来ない美である。その光景が重なって違和感が増幅するのである。仮にシートに覆われていなかったにしても日本の田園に稲穂ロールは馴染まない。昔日、あちこちに点在した「積み藁」の光景こそが日本の田園風景の美だった。稲穂ロールが田園の美に転じるには今暫くの期日を要するのだろう。

 果たして欧州でも牧草ロールを白いシートで覆うようになっているのだろうか。そうだとすると欧州の人々さえも違和感を持つに違いない。日本では積み藁の光景は既に消えてしまった。田園の季節の美の一つの喪失である。稲刈りの時に同時に機械で藁(厳密には茎)を切り刻んでしまう為で、ここにも「農具」に変わる「農機具」の影響がある。

 飼料米の作付けは、栄養価の高いトウモロコシのような飼料穀物の輸入における価格変動や調達リスクの軽減、田圃が耕作放棄地となることを抑制する、そういう一挙両得の効果があるらしい。加え日本の食料自給率の拡大にも貢献する。輸入穀物に頼る畜産は自給の対象にはならないからだ。

 飼料米への転換は需要者である畜産農家の存在が前提となる。飼料米を作りこれを使用すると米農家にも畜産家にも補助金が出る。食用米より飼料米の方が手間がかからない点は農家にとっては朗報であろうが、祖父母が生きていたら嘆いていたろう事は想像に難くない。「牛馬に食わせる為に田圃に汗水垂らすとは何事ぞ。」と。                               

 米を作らなくなった農家、畜産をやらなくなった畜産家、その事実に焦点を当てる事が先決かもしれない。畜産家は農家よりも後継者難、高齢化が及んでいないとは言い切れない。別物の違和感がそこにある。

<柚採り> 2022.10.25

 なんていう日だ。1メートルはあったろうか段差のある場所で回り道をするのが面倒臭くて飛び降りた。イメージとしては右足からフワッと優雅に着地するはずだった。一瞬の出来事である。気がついたら視界全てが空になっていた。右足は地面の応力を受け止められなかったのである。膝を打ち、手のひらを突き、そして右肩に体重が乗った。都合、三箇所にダメージを負った。手首の痛みがじわーっと増してくる。

 一、二メートルなどかつて平気で飛び降りていたではないか。このような形で身体的な衰えを思い知らされるとは。都会にはそんなには段差は無い。あっても飛び降りない。コンクリートだらけで危険だし。山里には畑地や土手が直ぐ側にある。段差だらけである。昔の記憶が未だそこに染み付いている。その記憶で飛んだ。walking程度ではこの体重にかかるGを支える筋力はつかないのだ。それに若い時分より20kgは増量しているし。浅はかな行為であった。

 午後からは右半身に痛みを覚えつつも熟れ気味だから柚子採りをやった。棘が刺す。予期せぬ方向から絡んできて刺す。脚立に登って背伸びしててっぺん近くの柚子に手を出す。足元がふらつく。朝方のダメージの影響もある。刺す度合いが増す。二メートルはある。ここからは飛べない。

 上は諦めた。草地を移動する。なんだこいつは。いつの間にか膝下が真っ黒だ。針のようなくっつき草の種子がまるで毛が生えたように纏わりついている。はたいても取れない。棉のトレーニングウェアだったからくっつき具合は申し分ないのだ。浅はかだった。

 毛玉取りでゴシゴシ擦り落とそうとするが返ってピッタリと張り付く。朝方痛めた右手首に更に負担を強いていた。鈍痛が更に増す。頭上から薄毛に棘が刺す。

なんていう日だ。

<ロングトレイル> 2022.10.23

 地方移住についての内閣府のアンケート調査がある。「ほどよい自然で、意外と都会 そんな場所で暮らしてみませんか」と問いかけるとその気になるそうである。残念ながら佐伯地方ではこれは使えない。「自然のお陰で大変不便、それでもいいなら暮らしてみては」となってしまう。

 だから当会は、「僻地は宝の山と海」と言い換えて当たりを待つことを考えた訳である。一旦この地に取り込む事が肝要なのである。殆どが逃げ出してしまうにしても、中には変わった奴が必ずいる。それがターゲットである。変わった奴は言い過ぎである。とにかく豊かな自然との対話が好きで不便こそが人間性回復の原点であると考えている人種という事である。

 これに「埋もれた歴史民俗」のフレーバーを加える。更に興味津々な違う人種が寄って来るはずである。「埋もれた」というフレーズに食いつく人種が必ず一定数いる。それもターゲットになる。出来れば「密かに」という言葉を加えれば完璧である。「変な感じだが気にかかる」というイメージが出来れば成功である。

 後はそこに住む人間をどう売るかという事になる。一番の魅力にしないといけない。人間は結局は社会的動物である。出会った人の印象でいとも簡単にイメージが覆る。だからこちらも「変な感じだが気にかかる」ようである事が大事である。それが無理というなら地元を語れるだけで十分である。とりとめもなく地元を語れるという事は地元を愛しているという事なのである。また会いに来たいと思うに違いないのである。だから地元の歴史民俗を学ばないといけない。

 今、欧米発祥のロングトレイルが静かなブームになっている。日本ロングトレイル協会によれば、「歩く旅を楽しむために造られた道のことで、登頂を目的とする登山とは異なり、登山道やハイキング道、自然散策路、里山のあぜ道、ときには車道などを歩きながら、その地域の自然や歴史、文化に触れることができるのがロングトレイル」。九州には未だ国東半島にしか無い。まさに天空路とプロジェクトの活動はそこに通じるではないか。ひょっとして佐伯地方は二匹目を狙えるのではないか。移住の後押しにもなる。日がなぼーっとしているとそんな事を想うのである。

<自然林と人工林> 2022.10.21

 昨日、N君に森林組合に関する意見を頂いた。こういう意見は当会の方向性を見極める為にも本当に有り難い。もっと広く意見を求めたいところである。だから今朝のwalkingでの光景も違って見えた。最早先日のようには朝日は眼中にない。山の朝日は西から降りてくる、なんて気取っている場合ではないのだ。

 道すがら光に照らされていく森林そのものをつらつら眺めていた。何とも単純な思考習性ではある。そこには人工林と自然林がせめぎ合っていた。日本の森林面積の人工林の比率は4割程度だが、この地方はそれを上回るかもしれない。人工林は杉と檜で七割を占めるが今その半数は50年超えの主伐期にある。もっとも成長の遅い檜は杉に比べて主伐期は十数年遅れる。

 15年前の我が里の空撮が残っている。伐採したばかりの山も写っていた。今、そこは自然林に戻りつつあった。当時、植林を放棄していたという事である。人が手をかけずとも自然の再生力はすごい。何しろ神様が手をかけている。その側に植林した杉の若木が成長途上にあった。こちらは自然林に包囲されてしまって窮屈この上ない。いわば樹木が神と人の代理戦争をやっている。自然の再生力は強靭である。人工林は人が手をかけないと簡単に息の根を止められてしまう。

 里の神様を思い出した。そう言えば未だ挨拶をしていない。walkingを切り上げて鎮守の杜に登って手を合わせた。流石、神の領域である。自然林が勢威を奮っていた。

 人側も何かと考えねばならない。シャワーを浴びて林業白書に首っ引きとなった。お陰で屋根に干していた布団の取り込みを日が落ちるまで忘れていた。山の夜は冷える。早速、山の神様の嫌がらせだ。

<朝焼け> 2022.10.19

 やはり山には朝焼けは無かった。山に阻まれて日の出の位置が高過ぎるのである。光の大気通過角度が大き過ぎて、豊予海峡で見たような神々しい赤々とした朝日と空は、残念ながら山では目にする事は出来ない。夕焼けも同様ということになる。山に朝焼けや夕焼けがあるとするならば、山では白く焼ける。

 山仲間のH君に山用の体を作って来たかと問われ首肯出来なかった。促されるように今朝から体力作りのwalkingを始めた。その道すがらの自然からの最初のメッセージが朝焼けだったという訳である。同じ山仲間のT氏からはシーズンに向けて体力作りに余念がないとの一報があった。N氏及び同窓のT君には未だ連絡が取れずにいる。自分が一番遅れている自覚はあるものの、若くはないとの自覚が欠落していた。致命的かもしれぬ。

 さて、その朝日が顔を出す前に振り向くと、光は既に後ろの山の上から静々と里に降りて来ていた。山の朝日は東から登るのではなく西から降りてくるのである。

 前回帰省時と同じ”朝の徘徊者達”に遭遇し再会の挨拶に及んだ。”徘徊道の三大美峰”、左間ケ岳、石鎚山、米花山はいつも通り泰然としていたが、これら徘徊者を「ちっちぇえ奴ら」と何だか小馬鹿にしている風でもあった。

 その麓を貫く番匠川の水面はこの時期辺りから峻烈な質感に変わる。大気が峻烈だから山も川もそのように映じる。自然の風景が切れ味鋭いのである。山にはそういう季節が訪れていた。

 一時間も歩いていない。体幹の左右バランスがよく無い。特に下肢の左側がきしみ始めた。N君のお薦めの気功術が頭に浮かぶ。効くに違いない。踵には、案の定、靴擦れができた。楽しみにしていた天空路がやや遠ざかってしまった。

<ふるさとへの道> 2022.10.15

 実家へのトンネルを抜けると秋桜が土手一杯に可憐に咲き誇っていて、いたく感動した。年々歳々旅の疲れ度合いが酷くなるが今回は秋桜に救われた気分だ。秋桜が好きな理由は本にも書いた。

 横浜から神戸まで約500km、新東名高速は制限速度120kmで山中を縫う。山は紅葉のそぶりも見せなかった。今回は追越車線は走らない、車を追い越さないと腹を決めた。クルーズコントロールのお陰でアクセルもブレーキもほぼ使わない、実に安心安全平安なドライブだった。

 気持ちにも余裕が出てくる。面白い事に気づいた。走行可能距離の表示がガソリンは減っていくのに段々増えていく。家を出て一般道を走っている時は確か690kmほどだったが高速を走っていると800km程に増えたのである。高速度一定走行による燃費効率が最大に達したという事であろうか。

神戸での乗船時には思わぬ余録があった。10/11から始まった全国旅行支援の適用で40%off(八千円返金)、地域クーポン最大三千円がそっくりもらえた。想定外の出来事である。安全運転のお陰に違いない。

 そうなるとフェリーからの光景も格段に良く見えてくる。昨晩の明石海峡もドラマチックだったが今朝の豊予海峡は神々しいほどに感動的だった。古代よりこの海峡を幾多の民が渡り、あるいは通過していったのだろう。その時分と全く同じ光景を見ている事に更に思いが深くなる。ここは太平洋への道でもある。我が佐伯地方への道でもある。佐多岬に朝日が登り豊後水道が輝きを増してきて帰省を早吸日女神社の神々が歓迎してくれているに違いないと思った。

 九州上陸後10号線でひたすら佐伯を目指す。この調子だともっと感涙に耐えない思いに浸れるに違いない。犬飼を過ぎた頃から中の谷峠を越えて弥生大坂本あたりまで、何と前にも後ろにも佐伯を目指す車は終始ただ自分一人、10号線を独り占めしていた。感激というよりは浮かれた気分に冷や水を浴びせられたような。

 土手の秋桜がそんな思いを払拭してくれた。ここは、”オカエリナサイキ”と受け止めるべきところだな。

<至福の時間> 2022.10.09

 至福の時間というものがある。私のそれは医者や床屋などで順番を待っている時間、バスや電車など交通機関で移動している時間、妻の買物が終わるのを待っている時間、そんな些細な日常の中にある時間である。中でも妻の買物のそれが最大の至福の時間かもしれない。最も身近にある容赦ない私の時間の簒奪者自らに使用を保証された時間だからである。

 これらの時間は一旦組まれてしまえば、自分では最早どうにもならない拘束時間だが、確実に自分だけに使用が許された時間である。何かに邪魔される事はまず無い。そこに他の予定を最早組み入れようのない確定時間である。自分で勝ち取り守らなければならない時間ではない。それなのに誰もが手を出せない私だけの時間だからである。

 その時間をぼーっと過ごしている訳ではない。通常は読書をして過ごす。読書に集中するには丁度いいお膳立てなのである。今思えば通勤電車での往復の読書の時間に優る至福の時間はなかったような気がする。

 とかく現代の時間の経過は慌ただしい。何かに急かされ何かをしなければと思わせる空気感があちらこちらに漂っている。人と同じ時間を共有せねば何とも安心出来ないのである。それは自分だけの時間とは相入れない装いの時間であって絶対的な開放感というものを有しない。最近、倍速社会という言葉を耳にする。時間への冒涜以外の何者でもない。

 そう、だから天空路に登ろう。ここにも至福の時間が待っている。一旦、登ってしまえば邪魔するものは一切ない。日常の中で手に入るような至福の時間とは物が違う。思い切らねば、自分で求めなければ、手に入らないワンランク上の上質の至福の時間である。私が日頃手に入れているようなケチな至福の時間ではないのだ。

 ただ、そのケチな至福の時間にこの記事を書いている。至福の時間とは何かに没頭出来る時間と言い換える事が出来るのかもしれない。

<恋の舞台> 2022.10.07

 誰しも夏の終わりの頃に決まって思い出す曲があるだろう。「いそしぎ」、「夏の日の恋」、少々遅すぎるが、やっとそんな楽曲が沁みてくる季節を感じている。何しろ30度超えの尋常ならざる日々が今の今まで続くと音感覚も変調をきたしてしまう。本来であれば既に「枯葉」を味わっている季節なのだ。もっともこの歳でいまだに感傷的になれるのは悪い事ではない。

 ただ、若者達はもう夏休みも終わって学業に戻っている。夏の終わりの恋も白けてしまって台無しに違いない。それほどに季節感のズレが甚だしくなってしまった。

 夏の終わりになると必ず蘇って来るそのBGMを担うのは決まって昔からパーシー・フェイス楽団であった。ポール・モーリアでもレーモ・ンルフェーブルでもフランク・プルーセルでもヘンリー・マンシーニでもミシェル・ルグランでもない。何とも古い話だ。恋の思い出はこの楽団なくしては成立しない。昔から小洒落た音楽には馴染みがない。田舎もんと街もんとのセンスの違いは今も付き纏っている。

 夏の恋は圧倒的に海浜に軍配が上がる。山ではない。だから天空路は恋の舞台としてはあまり機能しない。それでも天空路から海に降りてくればいい。素晴らしい海が恋の舞台を用意している。だが言っておこう。山の恋は海よりも清冽で確固としたものになる。山は海に比べて孤独感が濃くなるからである。

 残念ながら山の恋に相応しい楽曲は世に少ない。「雪山讃歌」では男同士で誤った恋に落ちかねない。ここでも海に軍配が上がるのである。それでも天空路は特別限定の恋にうってつけである。そんな希少な恋の為にも天空路を拓いてあげたいではないか。

 恋に関してはブログ・海の向こうの風景「恋の舞台」に詳しい。きっと、特に男性諸氏は、共感してもらえるに違いない。

<山の音> 2022.10.06

 朝からうるさくて仕方がない。マンションの敷地内や周囲の公園の夏草は放置する訳にはいかない事は重々承知である。それでもあの電動草刈機の音をどうにかして欲しい。ウオオオオオーン、ヴオオオオオーンと、刈る草の密度に合わせて音が抑揚を繰り返す。その不協和音は常にフォルテッシモなのだ。歯医者のキウィーンという治療音や黒板に爪を立てるキッキキキーという音や蚊のウオーンという羽音の方が未だ我慢出来る。電車内の音と同じレベルらしいが電車内の音は気にならない。機械音も生活の一部になると身体は折り合いをつける。

 今日は業者が朝から敷地内の草刈をやっていて、しかもやや高層のマンションだからやたら反響する。草刈り”鎌”を使ってもらえぬものかと思う。春先に実家で使っていたその鎌の音はザッザッと草を喰むようにむしろその音は心地よかった。

 くどいが電動草刈機の音はまるで爆裂音だ。暴力的にがなり立ててくる。そこまで嫌う事はなかろうとは思うが読書や音楽鑑賞やテレビ視聴中に限って襲ってくるから始末が悪い。この愛しい時間は外に持って逃げられないのである。

 雨がそぼ降ってきた。季節の変わり目の雨は悪くない。土の匂いを微かに立ち上らせて木々や地表やあらゆる物の上に静かに触れ落ちるその音が何とも心地よい。草刈が終わった後だから尚更格別に心地よい。やはり自然が作る音に勝るものはない。

 昔はこのような機械音は一切なく自然音のみだった。神経を荒立たせる騒音はなかった。ただ人々は自然が鳴動するのを偶に聞いた。山や地面が鳴動する。それは畏れ多い音であった。機械音を一切止めてみたらいい。今でも鳴動が聞こえるに違いない。

 川端康成に「山の音」という小説がある。初老、といっても未だ60歳そこそこであるが、主人公は地鳴りのような山の音を聞き、死期への恐怖を覚える。人はその心持ちによっては自然の中に何とも不思議な音を聞くことができる。

 天空路に登ろう。機械音は消えて自然音が迎えてくれる。そぼ降る雨の音に劣らぬ心地よい多彩な音が聞こえて来る。心を洗ってくれる音である。不思議な音にも出会えるだろう。だから天空路を拓こう。 

<挽歌> 2023.01.05

閉校した母校の小学校の校歌を思い出せないと書いた。同級生が「私も思い出せない」という。その後、歌詞は分ったもののそれでも譜面がないのでメロディは未だ蘇ってこない。別の同級生も同じようなもので今そのメロディを探している始末だ。卒業して以来、意図せず校歌を不要なものの範疇にしてしまっていたのだ。だから思い出せない。その歌詞やメロディが堅苦しく仰々しく、つまり古臭く現代感覚にそぐわないからだと言い訳をする訳にはいかない。母校の象徴であり、ないがしろに出来ない精神の柱になっていたはずなのだ。

時代を反映したいのであろうか、よもや生徒への迎合でもあるまいが、最近では流行歌手に頼んで校歌を作詞作曲してもらうケースも増えて来た。閉校になった我が母校は東西の小学校が統合されて本匠小学校として再スタートしたが、その校歌はシンガーソングライターの伊勢正三が作った。なかなかいい歌でこれなら卒業後も歌い続けてくれるかもしれない。いかついイメージを纏っておらずメロディも心に染みる。

それでも今の自分の中には当時の校歌の方が校歌らしいと思う天邪鬼がいる。今風は何だか優し過ぎて平和的でそこには厳格な教師や校風の喪失感が強い。行事の度に歌っていた校歌は背筋を伸ばしてくれたような気がする。その校歌を思い出せないのだから情けない。

母校は帰省してもいつもそこにあった。そこに後輩たちが同じ校歌を歌い継いでいた。それが当たり前だと思っていた。小学校だけではない。中学校も閉校した。母校は残すところ高校と大学ということになるが、小中学校ほどの母校愛はない。学び舎での懐かしい光景や思い出の凝集度合いが格段に違うのである。少年が大人になっていく苦さ故でもある。

校歌は挽歌になってしまった。それを思い出せないとは何だかやるせない。